ドキュメンタリーは嘘をつく

 ここ数日仕事でとあるドキュメンタリー番組に関わっていたが、大変貴重で面白い体験だった。当然だが、ドキュメンタリーは真実をそのまま写す鏡ではない。そこには監督だったり番組の意図や主観はある。事前に大まかな構成があり、それに則ったゴールを目指して作られるので、演出やオチはあるわけだ。下手したら劇映画のように撮り直しがあったりカットを割ったりする。

 

 ただ、ドキュメンタリーが全くの嘘ややらせかと問われれば、それは違う*1。監督が伝えたいメッセージやテーマと、取材対象が持つ考えや哲学が相反してしまう時がある。そんな時、監督にとってきっと楽なのは、事前に質問内容と答えを打ち合わせしてそのまま言わせてしまうことだろう。白状すると、撮影現場の末端にいる僕は現場で生じていた齟齬に対して、少なくともそう短絡的に考えていた。

 

 しかし、実際にはカメラの回っていないところで監督と対象者の対話が長く続いていた。監督にとってAという答えに対して、対象者はBという答えしか持っていなかった時、二人はCという答えにたどり着く。強引にルートに嵌めていくのではなく、この弁証法的な対話がドキュメンタリーの肝であり、結局は監督の意図しなかった嬉しい結末に落とし込めるからこそ、ドキュメンタリーは面白いのだ。

 

 見ていない作品のことをあれこれは言いたくないが、今年某ドキュメンタリー作品がキャストと監督の怨恨によって大炎上した。この二人の間に納得のいく対話はあったのだろうか。 

ドキュメンタリーは嘘をつく

ドキュメンタリーは嘘をつく

 

 

*1:もちろん、主観がいきすぎたあまり真実を歪曲しすぎてしまうドキュメンタリーはいくらでもあるとは思う

ただ騒ぎたいだけだろ!

 今週末は仕事で、会社の車を運転している。今日もクライアントの方々をホテルへおろし、自宅のある近所へ。NYは基本路駐だが、休日だというのに車の数が多くて停められない。家は目と鼻の先なのに全然帰れない状況にイライラしたが、歩行者がほとんど仮装しているのを見てハロウィンの週末だと気がついた。どこもかしこもホームパーティを開いているのだ。

 

 仕方なく家から若干離れた場所に停めてトボトボ歩いて帰る。本当にどこもかしこもハロウィンの装飾を施していて楽しそうだ。僕もハロウィンは大好きで例年仮装しているが、今年は楽しめるだろうか…。

 

 家に帰りつくと、オレンジと紫のカラーリングが施された隣の家から爆音で音楽が流れてくる。でもよく聞くとハロウィンとは全く関係ないアコーディオンが響くラテン系音楽。どうやらヒスパニックの人たちがパーティーを開いているようだが、君たちはハロウィンにかこつけて騒ぎたいだけだろ!

 

 

時代は変る

 トランプ大統領ケネディ暗殺に関する文書を表明通り公開しましたが、結局はCIAに一部差し止めされスッキリしない形になりました。

 依然不明瞭なケネディ大統領暗殺の実態に批判をする人も多いですが、でも全てが明らかになるよりは疑惑が残った形の方が陰謀論者の皆さんはよりネタを続けられるので願ったり叶ったりじゃないんですかね。謎は謎のままにしてあるから華があるんですよ。

 

 ところでCIAが全面公開を差し止めたことで、やっぱりケネディ暗殺はCIAが犯人だったんだ!と陰謀論者の方は息巻いていますが、何を言ってるんですか。ケネディ暗殺の犯人はコメディアンに決まっているでしょう。

 

ウォッチメン (字幕版)
 

 

 

 あるいはCIAはケネディがミュータントだった事実を隠したいんですよ。真相はきっとそんなところです。