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5月から2年間アメリカに行きます。そしてその理由。

 突然ですが、5月から2年間ほどアメリカの大学へ留学してきます。

 

 実は去年の夏から決まっていたことなのだが、周囲には昨日になるまでずっと隠していた。本当に大した理由はなく、卒業直前に発表してサプライズにしておこうというバカな 単純な発想からだったが、特にこの4年間とてもお世話になったサークルの方では驚いた人も多いだろうし、秘密にしていたことを申し訳なく思う。せめて僕が留学を決めた経緯をここに詳細に記したいと思う。

 

 去年の今頃、僕も世間の大学4年生からご多分に漏れず"就活活動"を行っていた。某映画会社の最終選考まで残ったものの落ちてしまい、そこの子会社を受けることになった。当時映画会社しか受けていなかったこともあり、いわゆる"持ち玉"ももう残り少なく、内定を勝ち取れなかったショックから半ば放心気味に、そしてもう後がないという藁をもすがる二重の思いでその会社の面接を受けた。その際、僕がエントリーシートに「特技:自主映画制作」と書いてあるのを見て、その会社の社長がこう言った。

 

「言っておくけど、うちじゃ映画は作れないからね?」

 

 その時"就活生"の反射神経で「はい、大丈夫です!」と元気よく即時に答えたが、家に帰ってから自分の半生を振り返っていた。

 

 

 僕には、「成功体験」というものが無い。

 

 一番最初の挫折は中学受験だったか。当時、親の勧めで学習塾に通わされていたが、勉強が嫌いだったので成績はすこぶる悪かった。その癖プライドだけは一丁前に高かったので、名門中学を目指していることを公言していたものの、やはり現実は甘くなく結局願書さえ出せば誰でも入れるような私立に入学した。

 

 自ら撒いた種とはいえあまりにも悔しく、「この学校で一番になってやる!」と入学当初は息巻いていたものの、かといってこんな学校でも頭がいい人はたくさんいて、進学クラスには入れたが一番どころかいつも中の上くらいの成績でくすぶっていた。そしてまた悪い癖で「いつかはテッペンを取るだろう」と楽観的に、というか現実を見ないようにしていた。

 

 高校になると今度は大学受験を控えるが、まともやそんな成績でもないのに親へのコンプレックスから本郷の大学を目指す。低偏差値の私立校ですら1位になれない人間がそんなところへ行けるわけもなく、二次試験どころかセンター試験足切りというこれ以上ないみっともない落ち方をした。浪人すると成績が飛躍的に伸びたが、それは元からゼロの人間がまともな授業を受けたら伸びるのは当たり前で、結局1浪しても念願叶うことはなかった*1

 

 で、大学に入ると今度はそこで振るい分けがあり、本来学びたかったはずのメディア論とはかけ離れた、自分でも何を勉強するのか訳の分からないコースへと進む。「いやー、めんどくさいわー」と言いつつも面白そうなゼミに入ってる友人たちが羨ましかった。

 

 勉強だけじゃない。

 

 例えば、僕はよく「うそー!?」と驚かれるが、中高6年間は柔道部に所属していた。今となってはなんで入ったかすらも覚えてないが、部活はそれなりに好きで練習にも良く顔を出していた。しかし、「うそー!?」と驚かれるくらいに僕はヒョロッヒョロの体型で、「柔は剛を制せない」証拠となるくらい弱かった。また、いつも一番声を出していたためずっと部長に選ばれていたのに部内で最弱、というこれまた実に情けないありざまで、僕が八百長で初段をとったことは伝説となっている。

 

 大学時代に打ち込んだ映画制作だってそうで、毎年お金と時間をかけて映画を作り、そのうち2本の作品が学内コンペで本選作品に選ばれはしたけれど、これといった実績を残せてはいない*2。一方で、同じく本選作品に選ばれた作品や他の映画祭で上映されている学生映画なんかを観ると、どれもこれもとても自分の発想なんかじゃ作れない脱帽させるものばかりで、自分と同期かそれ以下の年齢の人が監督していると知ると更に嫉妬心を覚える。

 

 他にも、趣味でこうやって映画の感想を書いてはいるけれど、一般に言う「映画ブロガー」からは程遠いくらい拙い文章やアクセス数だし、映画が好きとは言っても他のファンと比べると観てる本数は少ないし、ゲームにしろビリヤードにしろ遊びだっていつも中途半端で上達しないし、運動だって笑っちゃうほどできないし、異性にもモテない。僕は常に敗者の側であり続けた。

 

 僕はどちらかというと「ひょうきんな」人間で、いつもこういったダメな部分を見せるとイジられ、その度におどけて場を笑わせたりするのだが、その実内心何もかもうまくいかない自分にイライラしていた。そして右に習う形で始めた"就職活動"でも安定のダメっぷりを発揮し、いくつもの辛酸を舐め、唯一内定がもらえたのは冒頭に述べた「映画を撮れない」会社だけだった。

 

 そんな中、ある後輩の一言が契機となった。

 

「先輩、留学して映画を学べばじゃないですか」

 

 なんの帰り道だったか忘れたが、ぶらっと二人で寄った日高屋でその後輩が言った。その後輩はジャイアンみたいな見た目の割には博識なやつで、一緒にいると学べることが多く面白いので僕は好きな後輩だった。彼自身も現在中国の大学に留学しているのだが、その直前の時期に僕が就活の愚痴を話していた時だったと思う。彼は何気無く言ったつもりだったかもしれないが、僕の中で確実に何かが動いた。

 

 唯一僕が人前で自信を持ってできると言えるものは英語だ。帰国子女として8年アメリカに住んでいたこともあり、これまで英語の学習だけは苦労したことがなかった。めんどくさいのでTOEICなどの資格を取っていなかったため就活中は全くアピールにならなかったが、これは自分が持てる唯一にして最大の武器だった。

 

 そして、アメリカの地で映画を学ぶ。漠然としているが、なにかとてつもなく凄い事のような気がした。何より、このままでいいのか。なぜ僕が映画業界しか受けなかったか。それはやはり僕は映画が好きで、観る側よりも作り手の側に回りたかったからだ。なのに、「映画は撮れない」と言われた会社に勤め、毎日死んだ目をして淡々と業務をこなし「俺も映画を撮りたかった…」と嘆くのか。

 

 

 嫌だ。

 

 

 勝ちたい。

 

 

 もう、コンプレックスだらけの人生にはウンザリだ。

 一度でいい、一度でいいから僕は「成功」というものを味わってみたい。

 根本敬じゃないけど、僕も「でもやるんだよ!」の道を歩みたい。

 

 気がつくと、僕は帰りの電車で「映画 留学」と検索しており、そこで出てきた説明会の申し込みを済ませていた。

 

 後日、サークルの飲み会で、その後輩にだけこっそりと耳打ちで報告した。

「俺、アメリカに行くことに決めたわ」
「お、マジすか!いいじゃないですか!」
「ああ、でも皆には追いコンで初めて明かしてサプライズにしたいから内緒な」
「ハハハッ、いいっすね〜!了解です!」

と、こんな按配でこの薄っぺらいサプライズ計画は始まったのだった。

 

 さて、米国大学への合格が決まった夏頃、ぼくにはもう一つ内定辞退という試練が与えられていた。世の中には「内定を辞退したら鬼電がかかってきた」「呼び出されて怒鳴られた」「訴えると脅された」という都市伝説がいくつももあったので怖く怖くてなかなか言い出せず、結局報告するまで一ヶ月ぐらいかかってしまったのだが、緊張で震える手で内定を辞退したい旨と理由を伝えると次のように返ってきた。

 

「そうですか、やっぱり夢を追いたいということで、内定辞退承りましたので。じゃあ、もし君が将来この業界で撮ることになったら、是非うちの会社をよろしくお願いします。」

 

 人事部長の優しいお言葉に感謝するとともに、げ、いい会社だったんじゃん!と若干の後悔の念を感じつつ、今は着々と準備を進めている。

 

 

というわけで、このブログも5月からはアメリカから更新いたします。今後とも何卒よろしくお願い致します。

*1:まあ、ここら辺は以前記事に書きました。

あの日の記録 - 新:尾も白いの探して。

*2:こう書くと知人からは「え、じゃあ二年の時のあの作品はなんだったんだよ!」とツッコまれそうだが、やっぱりあれは「共同制作」という認識が強いので、あまり自分の実力って感じがしないのです…。