ママ、ニガーってなあに?

 ろくに授業は教えないくせにやたら漫談だけは面白い先生、っていうのは予備校などにたくさんいるが、そんな先生がうちの大学にもいる。今学期も終わりに近づいているのに、ぶっちゃけその先生から新しく学んだ撮影知識などは何一つないと断言できるが、彼の漫談からはアメリカの社会や文化の面白い面を学ぶことができて毎度楽しみに出席している。水曜日17:30からの3時間授業で、回を経るごとに明らかに欠席者が増えていたが。

 

 そして授業最終日の今日も相変わらずの雑談だけで終わったが、今日は先生が子供時代に起きたことを話してくれた。

 

 先生が小学三年生だったある日、友達や兄弟で外でオハジキで遊んでいた。その日は典型的な夏の日で喉も渇いてきた頃、ソーダを美味しそうに飲んでいるおじさんがいたらしい。その様子は誇張もなくまるでコーラかスプライトか何かの宣伝のようで、おいしそうにおじさんはゴクゴク飲んでいた。羨ましく思った先生はおじさんに「僕にソーダを分けてくれませんか?」と無邪気に聞いたそう。その瞬間おじさんの顔は真っ赤に変わり、少年だった先生に怒鳴り始めた。

「俺がニガーなんかにやるわけないだろう!」

 

 おじさんはその場をさって行ったが、先生は何が起きたのかよく理解できなかった。家に帰った先生はお母さんに聞いた。

「ママ、ニガーってなあに?」

お母さんは驚いて聞き返す。「いったいどこでそんな言葉を覚えたの?」

「僕があるおじさんにソーダをねだったら僕はニガーだからあげられない、って言うんだ。でもニガーってなんなの?」

お母さんは困った表情を浮かべて息子に答える。「ニガーっていうのはつまり…黒人ということよ」

「へー…それでママ、黒人ってなあに?

その日生まれて初めて先生は人種というものを理解したそうだ。

 

 僕はこの日記を書くときあえて先生の人種については触れなかった。「黒人の」と書くこともできたが、わざわざ人種を特定しなくても「先生」は「先生」である。子供の意識もこのようなもので、純粋無垢な子供は偏見も何もないので肌の色や見た目など関係なしに「人」は「人」である。大人に余計な情報を与えられることで、子供は初めて人に区分を作り、ステレオタイプを持ち始める。する側にせよ、される側にせよ*1差別は往々にして大人が子供に教えているのだ、ということを先生は教えてくれた。

 

 これは人種やアメリカに限ったことではなく、このブログを読んでいる人も経験があるはずだ。「あの人は〇〇だから△△しちゃダメよ」「お隣さんの□□さんは実は★★なんだってね、きっと××に違いないわ」そんな些細な注意を子供は聞いて育つ。しかし実際に大人になった時、そんな親に言われたことが正しいかどうか改めて判断して自分の子供の代に何を伝えるかを考慮しないといけない。

 

 最後にこのビデオを紹介しよう。被験者はスクリーンに映った変顔をモノマネするように伝えられるが、ある人がモノマネ対象となった時、子供と大人の違いはどうなるか。子供がいかに純粋な視野で世界を捉えているか、を示した社会的実験の動画である。

 

アメリカ黒人の歴史 新版 (岩波新書)

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*1:実はこれが一番大事。「うちは〇〇だからアレコレしちゃいけません」っていうネガティブな意識を子供に押し付けないことも重要である