四十九日

 先月亡くなった祖母の四十九日で福岡に来ている。中学高校までは休みの度によく行っていた福岡だが、渡米したということもあって大学卒業してからめっきり行かなくなった。恐らく5年ぶりくらいだろうか?久々に福岡に帰れて法事に参加できたという点でも帰国して良かったのかもしれない。

 

 で、我が家にとっては久しぶりの法事である。前回法事があったのは僕が高校生の時亡くなった母方の祖父の葬式であったので、父が喪主を務める法事は25年ぶりらしく、勝手が分からず両親揃ってオロオロしていた。その模様が僕としては不謹慎だけど少し可笑しかった。

 

 こういう時に間の悪いことは重なるもので、祖母が亡くなった直後から両親が綿密に打ち合わせしていたお坊さんが今日急用で来れなくなり、代わりに引退していた90歳近いお坊さんの母親がお経を読むことになった。「私は法話が下手でして…」という前置きで尼さんが引用したのは相田みつをの詩であった。僕はてっきり仏法でも説かれるのかと思ってたのでまさかの引用先に笑いそうになってしまったが、引用後の尼さんの説教もモニョモニョっとした要領を得ないもので、僕は本来今日担当するはずだった坊主の行方をうっすら考えていた。

 

 さて法要が終わり納骨の時。祖母の骨は25年前に亡くなった祖父と同じ墓に入る予定だ。父が「骨を納めるお墓の鍵ってこちらで預かっているんですよね?」と聞くとポカンとして「こちらでは鍵を預かるということはしておらず、各ご家庭で預かって頂く事になってますが?」と言う。き、聞いてない!と愕然とする我が家。その鍵のありかは、今壺の中に入っている祖母のみぞ知る。わざわざこの為に東京から遺骨を福岡まで飛行機で運んできたのに、墓に入れられないでは祖母が浮かばれない。

 

 「まあ、こんな田舎でわざわざ遺骨なんか盗む人はいないだろ」という父の判断で、墓にかけられていた鍵を壊すことにした。お寺からカンヌキを借りて、僕が南京錠をギコギコ削っていく。鉄分は劣化していたので5分もせず鍵は外れ、石門を開いて祖母の骨を納める。深い骨堂の中央にそっと壺を置いたが、なんとなく『インディ・ジョーンズ』を連想していた僕はやっぱり不謹慎だ。

 

 全体を通してグダグダしてしまった四十九日だったが、祖母の死に目に会えなかった僕は最後の最後納骨の瞬間に立ち会えたのは良かったと思う。ただ、数十年後かいつかは知らないが、僕が喪主を務める番は必ず訪れるので、僕の両親と同じ様にオロオロする僕の姿が今から想像できる。