そして父になる/『ランボー』シリーズ総括

 先週から一人『ランボー』マラソンを実施しており、今週の月曜日に最新作『ラスト・ブラッド』を鑑賞して完走した。大学時代に観た『ランボー』1作目以外の作品は今回が初見。

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 4作目『最後の戦場』までの軽い感想を触れると、1作目はアメリカン・ニューシネマ的な問答無用の傑作だ。大学生だった当時、まだ世間の汚さを知らなかった僕は正直ランボーが突然暴れ出す理由がわからなかったけれど、当時より色々本を読んだり映画を見たり現実世界での出来事を目の当たりにして鑑賞し直すと、「権力」というものの横暴さに振り回されるランボーに胸が詰まり、ラストで号泣するランボーにはより一層共感を抱く。

 

 2作目『怒りの戦場』は作風のあまりの変わりっぷりが面白かった。『エイリアン』と『エイリアン2』、『ダイ・ハード』と『ダイ・ハード2』くらい違う。『エイリアン2』といえば、『怒りの戦場』の脚本はジェームズ・キャメロンが務めており、「今度は戦争だ!」路線に拡大したのもまあ頷ける。しかし、単純明快な娯楽作では終わらず、辛うじてまだCIAに利用されるランボーの悲痛さが伺えた(と思うことにする)

 

 3作目『怒りのアフガン』はある意味で凄い映画だった。なんせ、邦題からして凄い。すっかり戦争に翻弄されるベトナム帰還兵というテーマは影を潜めてしまったが、当時最も高額な制作費をかけられただけあり、荒野を馬に乗るアフガン兵の大群が走っているかと思えば、対抗するのはソ連の戦車大隊だ。「映画制作現場は戦争の指揮とよく似ている」と業界の先輩から教わったことがあるが、まさに映画のために戦争を作り出したのが『怒りのアフガン』だろう。自衛隊の演習とほぼ変わらないじゃないか。

 

 4作目『最後の戦場』は息を飲む衝撃作だった。元々1作目からバイオレンス表現が顕著なシリーズだったが、『怒りのアフガン』から20年かかった続編は、もろに20年の特殊効果の進化が画面に表れていた。銃弾一発一発にリアルな重さを感じ、誰も彼もが簡単に肉片となって死んでいく。しかし、スタローンが自らメガホンを撮って極限までブルータルに作り上げたのは、『最後の戦場』の延長線上には現実世界で本当に地獄が広がっていることを観客に実感させるためだ。僕は家の小さなPCモニターで鑑賞していたというのに、あまりの凄惨さに息を飲んだ。個人的にはシリーズで一番お気に入りだ。

 

 さて、お待ちかね、『ラスト・ブラッド』である。『最後の戦場』のエンディングは、20余年世界を放浪してきたランボーが、ついにアリゾナの実家に帰る雄大なロングショットかつロングカットで終わる。もうすでに引退したランボーに、今更どんなドラマがあるんだろう?と思っていたら、想像を絶する地獄だった。ネタバレになるので詳しく書けないが、とある展開はあまりの惨さに軽く落ち込んでしまったほどだ。

 

 もちろん、ここまでランボーが地獄の底に突き落とされたとなれば、その反動もでかい。ランボーが麻薬カルテルから受けた全ての痛みと怒りと屈辱を復讐する怒涛のクライマックスには、脳にドーパミンが放出されていることを感じるくらいカタルシスを得る。とはいえ、戦いに勝った後*1ランボーの表情も虚しく美しい。非常に満足する出来だったが、エンドロールでテーマ曲を聴きながら冷静になっていく中で、しかしこれはランボー』のタイトルを冠する必要があったのだろうか?という気になってきた。

 

 『ラスト・ブラッド』はシリーズの中でもかなり異色な作品だと思う。これまでの『ランボー』は受動的だった。1作目は自分を痛めつけた連中に反撃しただけで、2作目は作戦に呼ばれ、3作目は1度は断った作戦に出向いたトラウトマン大佐を助けるためで、4作目は自分が戦地に送り届けた支援団体を救うために戦った。ランボーはいつも何かに利用され、戦場に送り出されてきた。

 

 『ラスト・ブラッド』では、メキシコで行方不明となった「友人の娘」を探しにいくために国境を渡る。わざわざカギカッコ付きで書いたが、これもランボーにとっては大きな変化で、『怒りの戦場』のセリフであったように、ランボーが今まで信頼していた人物はトラウトマン大佐のみだった。『最後の戦場』にはトラウトマン大佐は死んでしまっており出てこないが、大佐の存在は幻影としてランボーを悩ませる。そんなランボーが大佐の影から解き放たれて、誰かと一緒に住み、年の離れた女の子に笑顔を向けているのは驚くべき変化だ。

 

 『最後の戦場』ラストで安寧を得ていたランボーが『ラスト・ブラッド』で再び戦いに身を投じる必要があったのか甚だ疑問だったが、トラウトマン大佐がランボーにとってどういう存在だったか考えると、『ラスト・ブラッド』がシリーズにとってどういう作品かが少し見えてきた。

 

 トラウトマン大佐は軍隊に入ったランボーを戦闘兵器として作り上げた、とシリーズ中によく聞く。つまり、ランボーにとってトラウトマン大佐は父のような存在だ。1作目はランボーが父の元に帰ってくる話で、2作目は父の命令に従う話で、3作目は父を救う話で、4作目は亡き父を乗り越える話だった。同時に、4作を通してランボーはトラウトマン大佐という唯一自らを制御してきた権威からも逃れ、誰からも利用されることのない存在になり、このクアトロジーをもってして「父殺し」の物語と解釈することも可能だ。

 

 さすれば5作目に当たる本作は、ランボーが父になる話だったのだ。であれば、「父殺し」に成功し、権威的なものや体制的なものから解き放たれたランボーが、初めて自らのために殺しを行うのは合点が行く。しかし、「父になる」ことこそがランボー史上最難関な任務になってしまったと考えると、果てしなく切ない。

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*1:ランボーが勝つのは必然なので、これはネタバレではありません