ドキュメンタリーは嘘をつく

 ここ数日仕事でとあるドキュメンタリー番組に関わっていたが、大変貴重で面白い体験だった。当然だが、ドキュメンタリーは真実をそのまま写す鏡ではない。そこには監督だったり番組の意図や主観はある。事前に大まかな構成があり、それに則ったゴールを目指して作られるので、演出やオチはあるわけだ。下手したら劇映画のように撮り直しがあったりカットを割ったりする。

 

 ただ、ドキュメンタリーが全くの嘘ややらせかと問われれば、それは違う*1。監督が伝えたいメッセージやテーマと、取材対象が持つ考えや哲学が相反してしまう時がある。そんな時、監督にとってきっと楽なのは、事前に質問内容と答えを打ち合わせしてそのまま言わせてしまうことだろう。白状すると、撮影現場の末端にいる僕は現場で生じていた齟齬に対して、少なくともそう短絡的に考えていた。

 

 しかし、実際にはカメラの回っていないところで監督と対象者の対話が長く続いていた。監督にとってAという答えに対して、対象者はBという答えしか持っていなかった時、二人はCという答えにたどり着く。強引にルートに嵌めていくのではなく、この弁証法的な対話がドキュメンタリーの肝であり、結局は監督の意図しなかった嬉しい結末に落とし込めるからこそ、ドキュメンタリーは面白いのだ。

 

 見ていない作品のことをあれこれは言いたくないが、今年某ドキュメンタリー作品がキャストと監督の怨恨によって大炎上した。この二人の間に納得のいく対話はあったのだろうか。 

ドキュメンタリーは嘘をつく

ドキュメンタリーは嘘をつく

 

 

*1:もちろん、主観がいきすぎたあまり真実を歪曲しすぎてしまうドキュメンタリーはいくらでもあるとは思う