僕が高校生の時「KY(空気が読めない)」という単語が流行語となった。まあ今じゃ死語で使ってる人も見たことないけど、当時は「あいつKYだよね〜」なんて感じで使う若者たちを牽制するように、学校やワイドショーで教育者や社会学者がしきりにこんなことを言っていたことを思い出す。
「『空気を読む』というのはいかにも集団主義の日本的な考えで、そもそも個に重きをおく欧米には『空気を読む』という意味の言葉すらないので、『空気を読む』概念はない。」
確かに同調圧力はクソの塊でしかないので一見正論に聞こえるし、この主張内容自体には僕も同意する。しかし、少なくとも「欧米には『空気を読む』という概念がない」という部分に関しては、アメリカに渡ってこれは案外間違ってるということに気がついた。
アメリカ人は結構空気を読むし、協調性を大事にする。大学の授業はほとんど少人数制でグループワークが多く、ここで他人と協力し合う姿勢を見せないとグループ全体の成績が下がってしまうので、お互いに迷惑をかけないように「空気を読む」のだ。*1
これは学校や会社に限らず、社会でも空気は超読まれる。例えばNYで地下鉄に乗ってるとよく見る光景だけど、さっきまで皆楽しそうに喋ってたはずなのに、停車した駅でホームレスが入ってきて乗客に小銭をせがみ始めると、車内に途端に気まずそうな沈黙が訪れる。これは「空気が読めない」人によって電車内の「空気が壊された」からに他ならない。
というか、大なり小なりコミュニティというものが存在する限り、「空気を読む」という行為は誰もが身につけるスキルなんじゃないだろうか。ただ、日本人は確かに「空気を読む」ことをあまりにも神格化しすぎていて、結果集団としての機能が抑制されることは多々ある。欧米社会でも「空気を読み」はするけれど、例えば誰かが間違えた時には「空気を無視して」指摘するくらいには「個」は強いのだろう。
だけど、確かに「空気を読む」に相当する英単語を僕は今まで聞いたことがなくて、きっと「空気を読む」というスキルは存在するけれど、それ意味する言葉がないんだろうなぁ、と僕は思っていた。ほんのついさっきまでは。
それはさっき寝る前に最近日課になっている『フアン家のアメリカ開拓期』をHuluで観ていた時に出てきた。フアン家には中国語しか話さないジェニーおばあちゃんがいるのだけれども、ジェニーおばあちゃんはESL(English for Second Language;第二外国語として英語を学ぶ学校)の先生*2と恋に落ちる。おじいさんもだいぶ前に亡くなったし、きっとジェニーおばあちゃんは家で孤独を感じているのだろうと気の毒に思った息子のルイスは、先生をサンクスギビングの自宅晩餐会に招く。しかし、この先生は誰も望んでないのにひたすらつまらない冗談を言っては「ガハハハ!」と自分で笑うまさにKYな人で、遂に耐えに耐えきれずルイスはこんなことを愚痴ってしまう。
へえ〜英語だと空気じゃなくて部屋を読むのか!
でも思い返すと確かにこの「部屋」という概念は英語だと大事で、「誰もがそのことに気付いているのに、触れることができない問題(=タブー)」を刺して「Elephant in the room(部屋の中にいるゾウ)」と表す諺がある。『ディス・イズ・ジ・エンド』で黙示録が訪れ、ジェームズ・フランコの家にエマ・ワトソンが転がり込んだ時は、むさ苦しいボンクラ役者ばかりの中で可憐なエマ・ワトソンが一人だけいる性的に危険な状況が「部屋の中にいるゾウ」だった。
ということで、これからは「欧米人は空気は読まない」並びに「欧米には『空気を読む』という言葉がない」という誤った認識には相手が教育者だろうとお偉い論者だろうと積極的に正していきたいと思います。