浦安から都内に引っ越して早いもので今日(4/15)で2週間経った。2週間前にも書いたが、4/1に渋谷に行かざるを得ず、それまで住んでいた実家には糖尿病の父がいるので、大事をとってそのまま亡き祖母が住んでいた板橋の空き部屋に移り住んだのだった。まあ、別に身近に陽性者が出た訳でもなく、勝手に引きこもっていたので当然と言えば当然だが、身体には全く問題はない。毎日朝晩1回ずつ検温し、平熱で嗅覚と味覚が死んでないことを確認して「生」の喜びを感じている、と言っても過言ではない。
ところで、昨日NYの元同僚と久々に電話で話した。当然、感染の震源地となっているNYでは悲惨な状況になっているが、外の光景をほとんど見ることがないので、家から数マイル先で地獄絵図が繰り広げられていることが実感し辛いという。これは確かに僕も感じていたことで、いまや東京でも医療崩壊が起きているというのに、ウイルスという脅威は目に見えづらく、唯一の対策方法が外界からシャットアウトすることなので、この歴史的出来事が視覚的には飲み込み辛い。SF映画で散々描かれてきた、感染したらすぐ吐血して倒れるビジュアルに十分ショッキングなパンデミックはもうリアルに感じることができなくなって来るだろう。
そういえば、ちょっと前に話題となっている『コンテイジョン』を観た。今世界中の人たちが驚愕しているのと同じように、あまりにも精巧に予測されたパンデミック描写に開いた口が塞がらなかった。まるで現実の方が映画をなぞっているようだ。
ただ、『コンテイジョン』は一つだけ大きな予測を外した。劇中、パンデミックで社会は混迷し、アメリカ各地で略奪や暴動が起きていた。NYでも新型コロナウイルスが流行し始めた頃、暴動を恐れた駐在日本人たちが続々と帰国した。それがどうだろう。少なくとも感染爆発しているNYでは全く暴動は起きていない。空き巣は確かに発生件数が増えたが、物資をめぐっての醜い争いも殺し合いも起きていない。スーパーにもキチンとソーシャル・ディスタンスを守りつつ、大人しく並んでいるという。これには元同僚も感心していた。
その背景には日本でも賞賛されるアンドリュー・クオモ州知事のリーダーシップがあるらしい。連日行われてる彼の真摯な情報開示と呼びかけにニューヨーカーたちは応え、党派や宗派、思想を超えて一緒に戦っている。NYの方が日本よりも相当被害が大きいのにも関わらず、羨ましく感じてしまうのは何故だろう。*1