ドキュメンタリーの見方

 さっきNetflixのノトーリアス・B.I.Gのドキュメンタリーを観てました。

 

 Netflixはドキュメンタリーに力を入れていて面白い作品があり、今まであまりドキュメンタリーを観てこなかった僕も年々鑑賞本数が多くなり、ドキュメンタリー映画を見るたびに新しいことを知って感銘を受けます。が、それ故に今日ふと思ったのは、ドキュメンタリー映画は「映画」として評価する時は何を基準に見るべきなんだろう?ということです。

 

 流石にテンポが悪かったり、何を伝えたいか不明瞭だったり、そもそも全く面白くないダメダメなドキュメンタリー映画は観ていれば分かりますが、ある程度質の高いもの、それも自分にとって門外漢のテーマを描いたドキュメンタリーは、その題材を教えてくれた時点で大抵知的好奇心が満たされて満足してしまいます

 

 もっと具体的にいうと、例えばいわゆる一般的な劇映画を見る時って「脚本が悪い」とか「編集が上手い」とか「撮影がかっこいい」とか、映画ファンの皆さんは各々自分の生理的リズムに合わせた基準めいたものを持っていると思います。しかし、ドキュメンタリー映画の場合は、大抵の作品がリサーチ過程で手に入れた素材映像に新録したインタビュー映像と情報を整理するインフォグラフィックを編集で織り交ぜて、シーン毎の雰囲気に合う音楽を乗っけて淡々と事実を述べていくじゃないですか。

 

 要は何が言いたいかというと、あるドキュメンタリー映画を見て「面白かった」という時、それは一つの映画作品として感銘を受けたのか、あるいは映画が描いている事実そのものに興味を持ったのか、判別するのが自分の中では非常に難しいんですよね。ナラティブな映画は1本1本の「作風」の違いが非常に分かりやすいので、自分の中の評価基準に則ってジャッジできるのですが、比べるとドキュメンタリー映画はフォーマット性が強ぎて無個性に見えてしまう気がします。

 

 しかし、広く考えれば劇映画もドキュメンタリー映画も同じ「映画」というメディアのはずで、年間ベストテンでジャンル分けせずに劇映画とドキュメンタリー映画を同時に選出している雑誌や人もたくさんいます。ただ、その年間ベストに選ばれたドキュメンタリーが傑作なのは、作品が面白かったからのか、それとも作品が描いている出来事が面白かったからなのかがいまいち分かりません。さらにドキュメンタリーだけで勝負させるアカデミー賞のドキュメンタリー部分なんかは、毎年ノミネートされている作品を見ると結局全部同じくらいインタレスティングで面白いので、投票者は何を持って優劣つけているのかがいよいよ分からなくなります。

 

 と、ここまで書いたところで、じゃあ僕の印象に残っているドキュメンタリーってなんだろうと今思い返してみたら、『立候補』とか『A』とか『スーパー・サイズ・ミー』とか『華氏119』とか、取材手法そのものが面白かったり、作家の性格や被写体との距離が見えてくる作品が多いことに気がつきました。これらの作品は先述したフォーマットに沿っていなかったりします。

 

 つまり、面白いドキュメンタリーというのは、被写体や描いている事実そのものではなくて、カメラの後ろにいる人間が見えてくる作品、ということになるのでしゃないでしょうか。そう考えると事実を羅列するだけのハリウッドやNetflix製ドキュメンタリーが全部画一的に見えてしまうのは合点がいきます。

 

 長々と自問自答していたらなんとなく答えにたどり着けてしまったような気がしたので、今日はもう寝ます。 

ドキュメンタリーは嘘をつく

ドキュメンタリーは嘘をつく

  • 作者:森 達也
  • 発売日: 2005/03/01
  • メディア: 単行本