男性性という暴力性/『最後の決闘裁判』★★★

 14世紀末のフランスで最後に開かれた決闘裁判についてのノンフィクション本を映画化した『最後の決闘裁判』を鑑賞。監督は『エイリアン』『ブレイドランナー』のリドリー・スコット、脚本はニコール・ホロフセナー、ベン・アフレックマット・デイモン。出演にマット・デイモンアダム・ドライバー、ジョディ・カマー、ベン・アフレックら。

※結末に少し触れています。

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 昨今の映画のトレンドは「有害な男らしさ(トキシック・マスキュリニティ)」を描くことだろう。今年だけでも傑作『プロミシング・ヤング・ウーマン』*1があり、『007/ノー・タイム・トゥー・ダイ』ではジェームズ・ボンドすら「有害な男らしさ」から解き放たれた。

 

 リドリー・スコットの最新作『最後の決闘裁判』は中世フランスを舞台にしており、騎士道という名ばかりの「有害な男らしさ」がまさに全てを支配していた時代だ。男のくだらないプライドや名誉の前では、女性は所有物と化し、嫁いだ男の後継を産むことを義務付けられている。この地獄のような世界では女性は徹底的にモノ化されている。

 

 当然、こういった批判的観点は、価値観がアップデートされた現代人の視点からによるものだが、本作が所謂「羅生門スタイル」をとっているのは興味深い。というのも、これまでの『羅生門』を模倣した映画とは異なり、登場人物たちの誰かが嘘をついているわけではなく、あくまで彼らの「主観」から見た「事実」を語っており、最後の証人マルグリットの証言のみ、現代人の特権で「真実性」が付与される。

 

 もちろん、何しろ約600年の前の出来事であるので、そこには作り手たちの脚色は多少なりともあるだろうが、マルグリットに真実を語らせることで、作り手たちが彼女の魂を、あるいはその大部分が男性優位社会であった人類史において犠牲になった女性たちの魂を救わんとする試みが見える。

 

 その監督を任されたリドリー・スコット御大の手腕も遺憾なき発揮される。『エイリアン』でも長い長いトンネルのような宇宙船内で、黒光でヌルヌルの宇宙生命体が虐殺を繰り広げると言う、早くからレイプや男性性の暴走をビジュアルとしてうまく象徴的に物語に溶け込ませることを得意としてきた映像作家だった。

 

 本作でも、暴走した黒い雄馬が無理矢理美しい白馬に種付を行おうとするシーンなど、ジャックとマルグリットの顛末を不穏に暗示しようとしていたが、個人的に舌を巻いたのはクライマックスの決闘である。実際の決闘はあそこまで派手なモノではなかったらしく、これまた当然リドリー・スコットの演出であるが、槍や馬、剣など、映画や絵画などで男根の象徴とされるものがしつこいくらい出てくることは特筆に値する。禍々しい男性性が画面を覆い尽くしており、ビジュアリストであるリドリー・スコットの力量に唸るしかない。

 

 また、本作を既に見た人は、このブルータルな決闘の結末を今一度思い出して欲しい。男という悲しき生き物は、相手を「貫く」ことでしか、誇りを保つことができないのだ。その決闘をすっかりと蚊帳の外へと追いやられてしまい、虚な目で見守るしかないマルグリットの心中たるや。『プロミシング・ヤング・ウーマン』と同じく、全ての男性が本作を見ることで、社会に自然と天賦された優位性、そしてその暴力性に自覚すべきだ。唯一の救いは、この内容の作品を80代のお爺さんが撮っていることか。恐るべし。