『リコリス・ピザ』のアジア人描写の何が問題か

 アカデミー賞に備えて『リコリス・ピザ』を観ました。(日本未公開なのにどうやって?という疑問へ先に補足すると、VPNを通して米Amazonで購入して鑑賞しました。)

 

 ポール・トーマス・アンダーソンの『リコリス・ピザ』は2021年最高の一本と称されている一方で、作品内に登場するアジア人差別描写が問題となり日本でもこの話題だけが一人歩きしていました。このブログを読んでいる皆さんならご存知の通り、僕は『サウスパーク』などアメリカのブラックコメディや風刺喜劇が大好きなので、風刺としての差別的表現には慣れっこで、このニュースを聞いた時も「どうせ昨今の過激化しつつあるPC文化で叩かれてるんじゃ無いの?」と割とこの問題を軽視してしまっていました。

 

 が、実際に鑑賞して当該シーンを観てみると、ちょっとこれは擁護のしようがないと思ったので、個人的に何が問題だったかメモしていこうと思います。

 

そもそもどういうシーンなのか?

 公開を楽しみにしている方もいると思うので、ネタバレにならないように具体的なセリフの内容などは避けますが、『リコリス・ピザ』にはとある浅薄な人物が出てきており、その人物はジャパニーズレストランを経営していて、日本人の奥さんと結婚しています。

 

 この人物は、一緒にレストランを経営する奥さんの「通訳」としての役割を与えられているのですが、この人物は英語で行われた商談相手との会話を日本語に訳すのではなく、なんとわざわざ「日本人訛りの英語」で商談相手に言われた事をそのまま日本人の奥さんに伝えるのです。

 

 すると不思議なことにこの日本人の女性は旦那さんの内容を理解し、それに対して「日本語で」旦那さんに返答するのですが、この男性は日本語が理解できない、という会話ジョークです。

 

何が差別的か?

 アメリカは多文化社会であり、色々な背景のある人たちが共同して社会を築いています。中には苦労してアメリカに渡り、何とか英語を新しく習得して逞しく生活している人もたくさんいます。もちろん、新しく英語を習得した人たちにとって、英語は母国語では無いので、どうしても訛り(アクセント)がついてしまう事が多いです。

 

 こうして頑張って習得した英語を、英語を流暢に話せる人たちがマネして揶揄する事は差別描写にあたります。これは日本語に置き換えてみると分かりやすいかもしれません。

 

 例えば、当該シーンを日本語で表現してみるならば、日本人のオーナーが、中国人の奥さんと一緒に中華料理店を開くとします。そこへ地元新聞の記者が「このお店、美味しいので記事にしますよ!」と伝えたら、そのオーナーが「妻に今伝えるので待って下さい、『ココノお店、美味シイカラ記事ニスル言ってるアルヨ!』」と誇張した中国語訛りの日本語で中国人の奥さんに伝えているようなものです。

 

 そして、このやり取りは冒頭に1回、中盤に1回と、なんと2回も天丼ギャグとして登場するのですが、この2回に登場する「日本人女性」はアメリカで暮らしてアメリカ人男性と結婚しているのに何故か英語を一才話しません。

 

何が問題か?

 僕は冒頭にもチラッと書いたように、映画やエンタメの中で差別的表現やステレオタイプな描写が出てきても良いとは思っています。ただし、その表現には社会批評性や表現の責任が伴うべきだとも思っています。

 

 先述した『サウスパーク』には『リコリス・ピザ』が可愛く見えるような酷いアジア人/日本人差別ジョークが出てきますし、スタンダップコメディアンの中にはマイノリティ訛りをモノマネして披露する芸人もたくさんいます。しかし、こうした描写は人種差別そのものの酷さやバカバカしさを笑ったり、アメリカに存在する社会問題を浮かび上がらせることを目的としています。

 

 ポール・トーマス・アンダーソンは本作への批判に対する反論として、eiga.comから引用すると「2021年の目線で時代映画を伝えるのは間違っていると思う(中略)その時代に素直になるしかない。ちなみに、私の義母は日本人で、義母に向かって日本語訛りの英語を話す人はしょっちゅういた。本人たちも無意識でやっていたんだと思う」と語っています。

 

 確かに、当該人物は非常な浅薄な人物として、また日本人女性へのフェティッシュを抱いた人物として描かれてはいます。しかし、その訛りを披露された日本人女性がイヤな顔をしたりするような描写はないですし、舞台装置として以上の機能が与えられていません。なので、「PTAの義母が笠井紀美子で同じ体験をしたから」とか「1970年代がそういう時代だったから」と言った擁護論は少し無理があるような気がします。

 

 PTAが言うようにキャラクターが無意識で差別的であったとしても、演出自体が無意識で差別的であってはならないと思います。その行動を批判する人物もいませんし、そもそも肝心のギャグとしても面白くない上に会話としても成立せず、かつしつこいので、同じ事を表現するにしてももっと別の方法はなかったのかな、と思います。また、映画全体のターンに対してこのシーンだけ浮いてしまっているのも事実です。

 

 ちなみに、映画そのものは大変良い出来で、映画ファンに絶賛されうる作品である事は間違い無いのですが、先述したようにこの差別描写が割と冒頭ですぐに出てくるため、残りのシーンを観ている間ずっと鬱陶しいノイズとして頭に残っていました。そう言った意味でも、非常に残念でなりません。