全くもって不要なスピンオフ/『オビ=ワン・ケノービ』総括

 シークエルの酷さで『スター・ウォーズ』から心が離れていたが、それをなんとか繋いでくれたのが『マンダロリアン』であった。しかし、S2の最終話で怪しくなり、『ボバ・フェット』で再び離れ始め、『オビ=ワン・ケノービ』ではもう遠い昔遥か彼方の銀河系くらいまで離れていってしまった…。

 

 まず何よりも罪深いのはオビ=ワンとベイダーを(2度も)再戦させることの意味を深く考えなかったクリエイター陣である。デボラ・チョウが悪いのか、キャスリン・ケネディが悪いのか、はたまたひょっとしたらユアン・マクレガーのアイディアだったりするのか、もう誰を責めていいのかすら分からないが、これを通してしまったのは全くもって浅はかな考えこの上ない。

 

 『新たなる希望』で久しぶりにかつての師と対面したベイダーの感慨に満ちた数々の名セリフも、『シスの復讐』で友と袂を分つエモーショナルな激闘も全てペラッペラに軽薄にしてしまった。なんなら、このシリーズでベイダーとオビ=ワンの決闘で生まれたエモーションは『シスの復讐』のムスタファーの決闘での悲しみと全く同じものである。つまり、ここで再戦する意味がまるでない。ライトセーバーを使ったスタントアクションも17年前の作品と比べても見窄らしい。

 

 そういったことに目を瞑ったとしても、各登場人物の浅はかな行動も目に余る。ルークをダークサイドから守ることを使命としているオビ=ワンが単独行動に出てベイダーと戦うリスクを何度も追おうとするのは無責任もほどがあるし、ベイダー卿も止めを刺さなかったり相手の死を確認する作業を何度も怠って失敗を続ける間抜けっぷりを見せる。この新シリーズで一つ分かったことがあるとすれば、ベイダー卿は試験を解き終わったら見直すタイプではないという新事実ではないだろうか。

 

 そもそも作る意味がなかったのは、我々がルークやレイア、ベン、ベイダーがどういう運命を辿るか知っていたからだ。これはプリクエルにも向けられた批判ではあったが、プリクエルにはまだアナキンがなぜ暗黒面に落ちてしまったのか、なぜ民主主義国家であった共和国が倒れ銀河帝国が生まれたのか、「How」を知る面白さには満ちていた。

 

 が、どうせ誰も死ぬことがないことが分かっている『オビ=ワン・ケノービ』でレイアが誘拐されようが、ルークが危機にさらされようが、オビ=ワンとベイダーが戦おうが、どうでも良さしかない。強いて言うなら新登場のキャラクターが死んだりしていたが、思い入れもないキャラが殺されるならそれは最初からいなかったことと同じである。

 

 では何故本作が製作されたかと言えば、それはファンの需要を満たすためだけに作られた以上以下の何者でもない。同人誌で描かれそうな展開を公式がやってしまう安直さ。なお、余談ではあるが、僕は数週間前にこう言うツイートをしていたら、本当にこの通りになったので笑ってしまった。想像力のカケラもない。

 

 そういえばつい先日、映画の打ち上げに参加した時、スタッフの一人が『スター・ウォーズ』ファンであることを知り、さらにその人は『エピソード8』で「降りた」らしく、二人で散々ディズニー参入以降の『スター・ウォーズ』の悪口を言っていた。「『スター・ウォーズ』の話をすると怒りが止まらないんですよ!」と冗談で言っていたが、今回の『オビ=ワン』最終回は久しぶりに僕を暗黒面に突き落としてくれた。デボラ・チョウは「もっと(オビ=ワンには)描く物語がある」なんて語っているそうだが、ねえよ、そんなもん!大人しく隠居させといてやれ!