『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:Vol.3』を観てきたっす。完結編にしてロケッツの出自に関わる物語、柔和な印象を残す撮影でジェームズ・ガンがエモい置き土産をマーベルに残して行った作品で、ここ数年のMCU作品の中ではずっと面白かった。
もう散々語られているのである程度踏み込んで書くけど、本作は「ありのままでいる」事の大切さを謳った映画だった。ロケットは完璧主義のマッドサイエンティスト、ハイ・エボリューショナリーに魔改造された悲しき過去を背負う。ハイ・エボリューショナリーに完璧を押し付けられるのだが、ロケットは「ありのまま」の姿を肯定して対峙する。
ロケットの救出劇を主軸に物語は進むが、この「ありのまま」はクイルとガモーラの関係にも当てはまる。『エンドゲーム』でガモーラを失ったクイルは、本作の別次元のガモーラを自分が愛したガモーラと比べてしまう。クイルは自分にとっての「完璧な」ガモーラ像を押し付けてしまっているが、今回同行するガモーラはあくまで別人なのだ。彼女には彼女の「ありのまま」を生きる権利があり、この衝突が本作のサブプロットとなる。
描かれているテーマ自体は2020年代的で面白いが、僕が気になったのは本作のヴィランのキャラの弱さだ。恐ろしい改造を動物たちに施しているのは分かるが、その実験で何がしたいのかよくわからない。理想な社会を追い求めているのは分かるけれど、どうしてユートピアを求めているのか動機も不明瞭である。マッドだから、で片付けられるかもしれないが、周囲をとにかく怒鳴り散らすだけのキャラクター描写は完結編の悪役描写としては物足りなく感じてしまう。中小企業のパワハラ上司じゃないんだから…。
あと、もう一個不満なのは、ネタバレになるのでぼかして書くが、「カウンター・アース」へのアレが、ガーディアンズのメンバーが割とスルーしているという点だ。仮にも善良な市民に手伝ってもらってすらいるのに、その人たちが危機に瀕した時に、ロケット救出を最優先事項としているのはちょっと偽善的すぎるのでは?僕はヒーロー映画で一般市民をおざなりにする描写があるとそれだけで萎えてしまうのだが、昨今のMCUは特にスケール感ばかりが大きくなってしまって、市井の人々に構っている暇がなさそうなのが問題である。
