何かと話題の『セッション』をようやく観てきた。監督と脚本を手がけたのは本作が長編デビュー作となるデミアン・チャゼル。主演はマイルズ・テラー、助演のJ.K.シモンズは本作の演技が高く評価されてアカデミー賞助演男優賞を受賞した。
※今回の感想は主にクライマックスの解釈について書いてるので思いっきりネタバレしています。
WHIPLASHとは「むち打ち」の意であるが、この映画から発せられるエネルギーの力強さと激しさによってむち打ちが引き起こされてもおかしくない。僕は劇場を出る頃には「やるぞ、俺はやったるぞ!」とすっかり何かのやる気スイッチ(何をやるかは知らんが)を押されてしまった状態になった。『ファイト・クラブ』に近い後味だ。
ところで冒頭で「何かと話題の」と書いた通り、ネット界隈では『セッション』をめぐる菊池成孔VS町山智浩による論争が話題となっている。
上記の時系列順に菊池成孔はジャズ専門家の立場から、町山智浩は映画評論家の立場からバトってるんだけど、これが熱いのなんの!
今まで町山さんがバトってきた相手って日垣某とか上杉某みたいなちょっとアレな人たちが多かったが、今回菊池成孔が書いた『セッション』disは回りくどく意地悪い長文でフォントの問題とかで読みにくさはあるものの、実は何一つとして間違ったことは書いてない。一方で、町山さんはいつも通りの映画の感動を追体験させるような熱い作品擁護でありつつ作品への理解が深められハッとさせられる。
でもハッとさせられてるのは当人たちも同じで、菊池先生は「「監督に主人公と同じ屈辱体験がある」という事実のご教示は、ワタシの本作に対する拭いきれないモヤモヤをかなりスッキリと晴らし」たと述べ、町山さんは「「『セッション』は強烈なパンチだけで、ラヴ(愛)がない」と言っている。そこが本当のポイントだったのだ。」とあたかもいつもの映画批評のように「菊池成孔批評」を展開している。なんだこの流れ、完璧かよ!Twitterで「実は二人は仲良しなんじゃないの?」って意見を見かけたが、確かに今回の言論プロレスの息の合い具合はほんじょそこらのコンビじゃ再現できないよな。
さて、ここまで完璧とも言える『セッション』評がある中でわざわざ僕がこうして筆を起こしたのは、恐れ多くも町山さんと菊池先生の『セッション』評の中で「あれ?僕とわずかに解釈が違うぞ?」と思う部分があったからだ。僕ごときがそんなことを思ったって誰が気にするんだって話だけど、自分の考えをスッキリさせるために僕が『セッション』のクライマックスについてどう見えたかをここに書いていきたい。
僕が自分の解釈と違うと思ったのは町山さんの日記のここの部分。
アンドリューをシゴく、フレッチャー先生は悪役ですから、もちろん間違った教師として描かれています。
速さを求める指導法はおかしいし、
意味もなく若い才能を潰すことしか考えてません。
彼をクビにした大学は結局正しい判断をしたわけです。
そういう時は「意味もなく」ではなく、「いったいなぜだろう?」と考えてみましょう。
たいていの映画では、描かれなくても、重要な人物の行動の理由が作者の中にはあるものです(ない場合もあるが)。
おそらくフレッチャー先生は、自分も演奏家になりたかったのでしょう。
それが何かの理由で挫折したんでしょう。
それこそ、菊地先生がおっしゃるように、フレッチャー先生はアーティストとしては「中の上」程度でしかなかったからではないでしょうか?
だから、若い才能を、おそらくは無意識の嫉妬で潰そうとしてしまう。
つまり、フレッチャー先生が鬼のように生徒に対して厳しいのは「嫉妬」故に「意味なく若い才能を潰すため」だ、という点に違和感を覚えてしまった。
というのも、アンドリューが退学になってフレッチャー先生も学校をクビになった後で二人はジャズバーで再会するんだけども、フレッチャーはこんなことをアンドリューに言っている。
There are no two words in the English language more harmful than "good job"
身を滅ぼす一番危険な言葉は「上出来だ」だ。
つまりフレッチャー先生はチャーリー・パーカーが頭上にシンバルを投げられたことをきっかけに死に物狂いでドラムに打ち込んだように、褒めることで生徒がそのレベルに甘んじてしまう悲劇を生むくらいだったら、恨まれようとも憎まれようとも追い詰める。
しかし、フレッチャーの犠牲者とも言えるアンドリューがその指導法に疑問を呈する。
But is there a line? You know, maybe you go too far, and you discourage the next Charlie Parker from ever becoming Charlie Parker?
でも限度があるのでは?やり過ぎて結局次のチャーリー・パーカーを芽が出る前に潰してしまうことになるのでは?
誰もが浮かべそうなその問いに対してフレッチャー先生は即答する。
No, man, no. Because the next Charlie Parker would never be discouraged.それは違う。何故なら次のチャーリー・パーカーは決して挫けない。
フレッチャーは自分の指導法の厳しさは自覚している。それも相手が折れないかねないほどの圧力を故意にかけているが、それでも立ち上がる生徒こそが歴史に名を残すドラマーとなるのだ。ただ、ついにそんな生徒には出会えなかったことが心残りだという。
さて、問題となるは次のシーン、つまりクライマックス。フレッチャーは今度のジャズコンテストに率いるバンドに「ウィップラッシュ」を叩けるアンドリューをドラマーとして雇う。当日意気揚々とステージに向かうアンドリューだったが、アンドリューが席に座るとフレッチャーは「俺をチクったのはお前だな」と鬼の形相を浮かべ、練習してもいない曲「アップスウィンギング」の指揮を始める!当然アンドリューは困惑してうまく叩けず、幾万の聴衆とスカウトマンたちの前で大恥をかかされてしまう。
僕はここでアンドリューよろしく混乱し、「なんだよこのクソ教師、外道じゃねえか!」と激怒した。さっきの和解はなんだったんだよ!綺麗事並べて置いて、結局ただの器の小さい意地悪ジジイじゃんか!
アンドリューは耐え切れず袖幕に引き下がり、異変を察知して待ち構えていた父の元へ。悔し涙を浮かべる息子を優しく抱きつく父。この親子が親戚一同にバカにされていた食事会のシーンや彼女とのエピソードを思い出すとギュッと切なくなる。
ところが、アンドリューはすぐに踵を返す。父に抱きしめられる前とは明らかに違う、覚悟を決めた顔でドラムベンチに戻る。唖然とする観客やバンドメンバーをよそに、フレッチャーの指揮を無視して激しくドラムを叩き始める。ここでもフレッチャーは「潰してやるぞ!」と圧をかけるが今までとは違って全く動じないアンドリュー。というのも、さっき父の胸元でアンドリューの脳裏にはフレッチャーの言葉が浮かんでいたはずだからだ。
「次のチャーリー・パーカーは決して挫けない」
今ここで全てを投げ出してしまったらそれこそ終わりだ。危うくフレッチャーの簡単な罠に引っ掛かるところだった。ただし、この罠はアンドリューに試練を与えるためにフレッチャーが意図的に仕掛けた罠だ。この程度の屈辱でドラムを諦めるただの「上出来な」男なのか、チャーリー・パーカーになるのか。フレッチャーはただ恥をかかせるためにアンドリューを起用したのではなく、伝説のドラマー誕生の瞬間を目撃したかったのではないだろうか。
そうして初めて自分の教え子からチャーリー・パーカーが生まれたのを見届けた教師と、地獄の通過儀礼を生き抜いた少年は互いに勝利の笑みを浮かべ合うのである。
っていうのが僕の解釈でした!