号泣した台湾人の彼女による『CODA あいのうた』レビュー

 どうもTaiyakiです!先日彼女と『CODA あいのうた』を観に行きました。僕は予習としてその前々日くらいにリメイク版の『エール!』を観ていた為か、感動よりも「よくこんなにアップグレードできたな」という脚色の巧さへの感心の方が大きかったんですけど、隣で観ていた彼女がトンデモなく感動したみたい*1で、帰り道も激賞していて家に帰ってもサントラをヘビロテするほどでした。

 

 一緒に観に行った映画でここまで感動している彼女を観たことがなかった*2ので面白く、「せっかくだからその熱い気持ちをブログに載せてみる?」とオファーしたところ快諾して文章を書いてくれたので、『SUPERBAD-ASS』初の試みとして他人の感想を掲載したいと思います!

 

 ちなみに、彼女は台湾人なので原文は中国語で書かれており、本記事は僕がDeepLを使いながら翻訳しつつ校正しています。なお、ネタバレしています。

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弧を描いて流れる天使の髪束
アイスクリームのお城が空に浮かぶ
羽根の渓谷はどこにでも
私はそんな風に雲々を見ていた

でも今は太陽を阻むだけ
雨雪が皆に降りかかる
私には色んなことができたはずなのに
でも数々の雲が私の道を阻んだ

私は雲々を両側から見ている
上から そして下からも
それでも何故か
私はまだ雲の幻影を思い出す
私は雲のことを全然分かっていないみたい

ジョニ・ミッチェル「Both Sides Now」より(Taiyaki 訳詞)

 

 映画を観終わった時、私は椅子から立てなかった。ただ数分間、涙を流していたいと思った。 演技やストーリー、音響などの素晴らしさは当然のこととして、人生の色々な側面に似ているシーンがあった。 これは社会から取り残されている人々のために書かれた、特別な物語だ。

 

 CODAとは「Children of Deaf Adults(聾者の子どもたち)」という意味だ。 そして、音楽を知っている人にとっては、「コーダ(楽曲の終わり)」という意味にもなる。

 

 この映画は、聾唖者の生活を赤裸々に描いている。 両親と兄が聾唖者という家庭で育ったルビーだが、歌うことが大好きだ。高校で好意を寄せている男の子が合唱部を選んだ時は、ルビーは何も考えずに彼についていって入部した。しかし、担任のV先生がルビーの美しい歌声を見出すと、感化された彼女は歌のトレーニングを始めることになる。

 

 ルビーは、上述の通り特別な家族の下で育った。家族の事業を手伝う上で彼女は家族の通訳となり、社会と家族を繋ぐ声になっていた。一方で、彼女には夢がある。 この葛藤の中で物語が展開される。

 

 私がこの映画の好きなところの一つに、全ての家族に共通しているであろう家庭内の口げんかやコミカルなシーンがある。世界中の人々と同様、障がい者も喜びや悲しみを抱き、悪態をつき、怒り、性欲を持ち、一人前になりたいと思っている。多くの人が障がい者を一面的にしか捉えていないが、実は私たちと同じなのだ。

 

 中でも私を最も泣かせたのは、ルビーが合唱をすることになり、お母さんが素敵な赤いドレスを買ってきてくれて、家族みんなでルビーの演奏を「聞きに」行ったシーンだ。 このシーンで監督は、無音にすることで聾唖者の日常を我々に擬似体験させる。 音が聞こえないので、ルビーの両親と兄は他の観客の表情を観察するしかない。合唱を観に来た 観客の真剣な眼差し、笑顔や涙する顔を見たとき、初めてルビーの歌声がいかに感動的であったかが理解できた。

 

 これらのショットを通して、家族のルビーに対する愛情がひしひしと伝わってきた。 家に帰った後、ルビーの父は娘とトラックの荷台に座り、娘に自分のためにもう一度歌うように頼む。彼は自分の手でルビーの喉に直接触れ、声帯の振動から子供の声を感じ取るのだ。 この映画は、聾者が聴覚以外の方法で世界を体験できることをリアルに表現している。

 

 私が冒頭に書いた「社会から取り残された人々」について。 私は障がい者ではないが、16歳で母国を離れた時*3の「異端者でいる気持ち」はとても共感できる。 アメリカに渡ったときも日本に来たばかりの時も、言葉が話せないうちはいつも端の方に座って周りの人が笑ったり冗談を言うのを眺めていた。言葉が理解できないし、会話に参加もできず、いつも先輩の胸を借りて泣いていた。「一言も分からなかった!」という孤独感を表現するのに、無力感という言葉ほどふさわしいものはない。なぜなら、頭の中では時間だけが解決できる問題であることを知っているからだ。

 

 あるいは、アメリカで高校1年だった時、学校内のアジア人の数は両手で数えられるほどしかいなかった。 あまりに場違いな存在だったので、食堂で一人で食事をするのも、昼休みにトイレに行くのも怖くなったことがある。

 

 音楽の授業でピアノの前に座る時だけ、私は自分の存在価値をようやく実感できた。ピアノに手をかけるたびに、やっとクラスメートに囲まれて「とても上手だね」と声をかけてもらえるようになった。 英語が話せず、白人の女の子達に馴染めない苦しかった時間は、しばらく置き去りにできるような気がた。 音楽に救われたといっても過言ではない。

 

 映画の最後には、ルビーがバークリー音楽大学のオーディションを受けるシーンが流れる。 ルビーは最初は緊張していたものの、家族が客席に忍び込んでいるのを見つけると、自然に手話で歌詞を歌っていた。やはり、彼女の勇気は幼少期から家族に与えられてきたものだったのだろう。私が感動したいくつかのシーンは、ルビーが家族と会話をするシーンだった。家族間が完全には理解しあえなくても、彼女達がお互いに想いあっている温もりは明白だ。

 

 監督がこのシーンで選曲したのは、かつてのヒット曲であるジョニ・ミッチェルの「Both Sides Now」。 歌詞は、私たちは皆「雲」を体験していると歌う。つまり愛や人生のありとあらゆる変化や、雨や太陽の恩恵を受けること、与えられるもののと与えるもの、失うものと得るもの、日々を数えること…。そして最終的にはその意味は何も分からないかもしれないが、「だからなんだ?」と。

 

 これは映画そのものに対する最高のコメンタリーだと思う。 ルビーが人生で背負っている十字架は重いものかもしれないが、家族との特別な絆があったからこそ、彼女は今の勇敢で成熟したルビーになり、かつての重かった愛をようやく人生の次のチャプターへ持ち運べるようになったとも言える。 人生には変えられないものがある。良いことも悪いことも。しかし、それらは全てコインの表裏なのだ。

 

 完璧な映画だ。アカデミー賞を総なめにしてほしい。

 

(おわり)

Beyond The Shore

Beyond The Shore

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*1:なお、彼女はオリジナル版を観ていない。

*2:ついでに言っておくと、映画の好き嫌いが一致することはあまりないが、『CODA』と翌日観に行った『フレンチ・ディスパッチ リバティとなんちゃらかんちゃら』に関しては珍しく同じ意見だった。

*3:彼女は親の教育方針で16歳の時に単身でアメリカに送られ、以来ずっと外国で暮らしている