パンドラの箱を開けた男/『Oppenheimer』★★☆

 クリストファー・ノーラン最新作『Oppenheimer』を台湾のミラマーシネマにてIMAX版を鑑賞。製作・配給はこれまでのワーナーからユニバーサルへ移り、脚本はノーランが自ら手がける。撮影は『テネット』のホイテ・ヴァン・ホイテマ、音楽はルドウィグ・ゴランソン。主演はノーラン映画の常連 キリアン・マーフィー、共演にエミリー・ブラントマット・デイモンロバート・ダウニー・Jr.、フローレンス・ピューら。

※日本公開前の作品ということもありネタバレはしていませんが、内容に踏み込んでいますので、ご注意ください。

 

  • まず一番最初に書いておきたいのは、ノーラン作品は本当にセリフが聞き取りづらい!SEと音楽が低音でうるさく、肝心なセリフが聞き取れないシーンが多い。本作はただでさえ難しい用語が多く、尺も3時間もあるのでかなりの集中力を要した。よって聞きこぼした会話も多く、本作品を100%理解した上で観ていないことは正直に告白してレビューしていきたい。

  • なお、アメリカ人はこれどうやって聞き取れてるの?と思ったら、やっぱり聞き取りづらさに批判が上がっているようで、インタビュー記事を読むとノーランは「芸術的選択だ」と言い訳をしていた。ノーランは現場の生の演技が好きなので、アフレコを全然しないそうだ。聞こえはいいけどノーラン、ビジュアルには徹底的にこだわるくせに、音に関してはあまりにも無頓着すぎでは…?

    https://www.insider.com/oppenheimer-christopher-nolan-cant-hear-dialogue-in-movie-2023-8

  • で、『Oppehneimer』である。クリストファー・ノーランという時代を代表する映画作家の最新作ながら、内容が内容なだけに日本公開の目処が立っていない。人々の憶測や政治思想による思い込みが勝手な批判を呼び、さらには先週起きた『バービー』米公式Twitter(Xとは呼ばない)アカウントのやらかしもあって、日本公開前から大分味噌がついてしまった感はある。

  • 僕自身も一日本人としてはそれなりに原爆投下には色々と思うところはあり、アメリカ在住の時も配慮の欠いた発言をしてくるアメリカ人はいたし、悔しい思いはたくさんしてきた。日本人が本作を冷静になって鑑賞するのは難しいものはあると思うが、一方で日本人ほど本作に正当な判断を下せる人たちはいないと思う。

  • さて、前置きが長くなってしまったが、大前提としての僕の感想は、非常にフェアかつ真摯に作られた、反戦反核(のノーラン)映画だと思った。日本で公開されたら議論は必然的に巻き起こるだろうが、少なくとも激怒する人は少ないんじゃないだろうか。

  • ノーランにしては珍しく実話を元にした映画だが、同じく実話を元にした『ダンケルク』が僕は好きではない。『ダンケルク』はどうも異なる3つの時間軸を操るいつものノーラン流ストーリーテリングがやりたかっただけに見えて、ダンケルクの救出作戦に対する作り手の興味が全然伝わって来なかった。また、ノーランは実写にこだわることで有名な監督だが、戦艦や戦闘機まで実写にこだわったせいで一度に写せる数に限りがあり、そのくせ血糊も出さないので肝心の戦闘シーンまでスケールが小さく見えてしまった。つまり、ノーランは自分の演出家としてのスキルを見せることを重視しているように見えて、史実に対してかなり不誠実に感じてしまったのだ。

  • その点、『Oppenheimer』はオッペンハイマー博士と原爆に対してずっと真剣に向き合った映画だ。まあ、今作でもノーランお得意の時間軸交差は登場し、そのせいで余計に尺が長くなったり複雑になってしまっている欠点は確かにある。だが、今回はノーラン映画史上恐らく初めてアクションシーンもなく、あくまで会話劇主体のドラマとして進められており、そのお陰でナチスを憎むあまり原爆開発に夢中になるオッペンハイマー博士の狂気や、原爆がもたらす恐ろしさとそれに気付いた後のオッペンハイマーの苦悩がよく描かれていると思った。

  • 同じく『Oppenheimer』を海外で先に鑑賞した人のよくバズっているレビューで、「ノーランが何を伝えたかったか分からない」「原爆投下後の責任について何も描かれていない」「日本人にとって胸糞悪いシーンは山ほどあった」と批判するものがあったが、正直ちゃんと映画を理解してみているのか疑問に思う。日本公開前なので詳しく書くことは控えるが、ノーランの反核反戦のメッセージは明確だったし、本作は原爆投下だけではなくて後年の公聴会のシーンを挟んでいることでオッペンハイマーが自ら開発した原爆兵器に対してどう落とし前をつけようとしているか分かる。もちろん、この原爆開発により世界に原爆が広がってしまい、冷戦以後世界は核の脅威に包まれる。本作でオッペンハイマーパンドラの箱を開けてしまった男として描写されているし、その苦悩や後悔、反省は十二分に描かれている。

  • 日本人にとって胸糞悪いシーンは、ちゃんと当時のアメリカ人の胸糞悪い考え方であることが分かるように描写されていて、ノーランが批判の意味を込めて演出しているのも観ていれば分かる。当該のレビューは非常にミスリーディングで、ノーランがこの作品でとった態度とは裏腹に全くフェアじゃないレビューだ。
  • ちなみに、本作が広島・長崎の惨状を描いていないことにたいしてアメリカ国外の映画評論家や反核活動家から批判が上がっているそうだが、僕はむしろそういった「分かりやすい」描写を除外しつつ、核兵器の非人道性と残虐性を見せたノーランの手腕に感心した。あくまでオッペンハイマーという人物に関しての映画であり、そこからブレることはあまりない。これこそ「芸術的選択」の結果だと思うが、ただ「多くのアメリカ人観客が足を運ぶことを見込めるからこそ、ありのままの惨状を見せる絶好の機会だったのに興行収入のために避けた」という批判もわからなくはない。

  • なお、本作はR指定を受けているが、これは原爆の恐ろしさを描いているからではなく、ノーラン史上初のヌードシーンがあるため。海外のレビューでは、広島・長崎は直に描かないのに、乳首はありのまま写すことに躊躇がないのは批判されている。まあ、確かに…。

  • 余談だが、本作は原爆投下は当然ながら、50年代以降のアカ狩りも含めて当時のアメリカという国家を批判的なスタンスで捉えている。これはノーランがアメリカ人ではなくイギリス人としてイギリスで育ったからこそ可能な視点だったのではないだろうか。

  • というか、我々はノーランが『ダークナイト ライジング』で驚くほど雑な核兵器の描き方をしたのを目撃しているので、あのノーランがここまで真摯に原爆と向き合い、その恐ろしさを伝えようとしているというだけで、僕としては大いに褒められる。

  • 『Oppenheimer』は原爆開発という重いテーマに目が行きがちだが、実のところ時間軸交差とスパイ映画が大好きないつものノーラン映画らしさもある。もちろん荒唐無稽なガジェットや設定などは出て来ないけど、何気ない会話シーンや研究開発に取り組んでいるシーンが大仰なほどサスペンスフルに盛り上げられていてちょっと笑ってしまう。先ほど「原爆に真摯に向き合った」とは褒めたけど、こういう演出をやらないと気が済まないのはノーランのアーティストとしてのエゴが強すぎて減点。

  • あと、長いよ!最後の1時間は最早尿意との戦いで映画どころではなかった。時間軸弄らなければもっとタイトにできたと思うが、時系列順に編集してもあまり映画として面白くならなさそうなのは、これもまたノーラン映画の悪いところが出てしまっている。でも世の大概の実録映画はちゃんとストレートな時系列順でもしっかり面白いからな、ノーランにはたまには小細工なしで勝負してほしい。

  • あ、大事な点をメンションするのを忘れていたが、わざわざアジア最大級のIMAXシアターまで足を運んで観たけれど、会話劇がメインなのでそれが必要だったかは分からない。先述したように、アクションシーンも皆無だ。が、やはり実写にこだわったトリニティ実験の臨場感は凄まじく、IMAXスクリーンいっぱいに広がる爆炎とキノコ雲がその恐ろしい威力を観客席まで届ける。あのシーンのためだけにIMAX料金を支払うのは十分ありだ。

  • そうそう、これも書き忘れていたが、キャストが異常なほど豪華。僕はほとんど前情報なく見たので、他の映画だったら主演クラスの俳優が次々と脇役に登場するのは驚いた。あと、ノーラン映画でお馴染みの名役者たちも数多く登場するので、ノーラン映画版『アベンジャーズ』みたいな趣はある。残念なのは、マイケル・ケインの不在。2005年の『バットマン・ビギンズ』以来、なんらかの形でマイケル・ケインはノーラン作品に関わり続けていたので、あの好々爺が画面に登場しないのは寂しい。

  • ということで、長々と書いたけど、結論としてはノーランの悪癖はあるけど、僕としては十分有意義で良い作品だと思った。『Oppenheimer』は世界中で大ヒットしているそうだが、ウクライナ戦争などで核使用が取り沙汰される今こそ、多くの人に観られているのは素晴らしいことだと思う。台湾の劇場を後にした時の、現地の観客のなんとも言えない空気感は忘れられない。彼らにとっても他人事じゃなくなるかもしれないのだ。

  • 最後に、本当に日本公開はどうか実現してほしい。日本語字幕付きでもう一回見させてくれ…。