coco試写会にて鑑賞。
劇団ひとりはこれまでにも長編小説を書いたり、役者として演技もしたり、「ゴッドタン」の企画ではあるがマジ歌シンガーとしてライブもしたりと、マルチな才能を発揮してきた。かねてからビートたけしのファンである事を公言してきたが、この度本人念願の映画監督デビューを果たした。
観客にマジックをかける
結論から言うと、悪くなかった。唸らされたのは、手品の見せ方の巧さだ。大泉洋演じる不幸なマジシャンが、過去にタイムスリップして自分の両親と出会う話だが、大泉洋はマジックを自ら実演してみせる。
何故スタントダブルを使っていないか分かるかというと、長回しで大泉洋が披露するマジックをじっくりと映しているからだ。劇団ひとりは「本物」である事を拘り、大泉洋の手品がらしく見えるまでなんと80回以上もテイクを重ねたらしいが、その成果もあって大泉洋がテーブルマジックを披露する冒頭部は一気に映画の世界へ引き込まれる。
マジックだけでなく、撮影も「本物」に拘る。スタジオ、CGを使用せず、基本的にオールロケで昭和の東京・浅草の雰囲気を再現してみせる。『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズからは感じられなかったノスタルジーが画面から香ってくる。96分という尺も素晴らしく、商業的感覚も兼ね揃えている。初監督作品でココまで出来れば上出来だろう。
芸人監督と東宝映画の悲しい性
しかし、度々観客にかかったマジックが解けてしまう場面があった。
劇団ひとりは監督だけでなく、『青天の霹靂』の原作小説と脚本*1も手がけている。演出力は確かな実力を感じたが、問題はシナリオにある。といっても、話の筋はシリアスな『バック・トゥ・ザ・フューチャー』といった所で良く出来ている。ただ、台詞があまりにも説明的すぎる。
劇団ひとりに限った問題ではなく、芸人やテレビ出身のライターが書く脚本のクセなのだが、なんでも口で説明してしまう。例えば、大泉洋がホームレスだった父の遺品から、大切に保管されていた幼い頃の写真を見つける冒頭のシーン。
「親父ぃ、人生は辛いなぁ…なんでこうなっちゃったんだろうなぁ…」
と涙ながらに語るが、そんなことは写真を見ながら涙を流すだけで今大泉洋がどういう気持ちかは分かる。
擁護すると、日本の笑いはボケツッコミありきなので、芸人監督のこの癖は仕方が無いところがある。特に劇団ひとりは様々なキャラクターを演じる一人芝居を得意とする芸風だ。観客の想像力をかきたてるために状況設定などもひとりが説明する。もちろん、コントではそれで構わない。
しかし、映画となるとそうもいかない。余白で状況を説明するのが脚本であり、演出だ。ありのままに気持ちを伝えられてしまうと、かえって白けてしまうのだ。その点、芸人監督の先駆けとなった北野武は余白の活かし方は抜群に上手い。
また、クライマックスにもウンザリさせられた。ネタバレになるので詳しくは書かないが、フラッシュバック、スローモーション、音楽、役者の涙と、あの手この手で観客を泣かせようと盛り込むが、言ってみればこれも演出や編集の説明過多だ。近年の東宝映画の二十番であるが、そろそろこんな安い感動に観客は乗らないことを学んで欲しい。
それでも次回作が楽しみ
とはいうものの、やはりいいところはまだまだあって、例えば病院での笹野高史と劇団ひとりの会話は余白の使い方が完ぺきだった。終わり方もベタながら中々グッとくる。少なくとも松本人志や品川祐よりは才能を感じた。今回は感動にウェイトを置いてしまったが、次回作に純粋なコメディ作品を撮れば結構面白いものが出来上がるんじゃないか。
そういえばなんで日本の芸人監督はコメディを撮らないんだろうか?アメリカのコメディアンだとベン・スティラーやセス・ローゲンが撮るコメディなんかは死ぬほど面白いのに。日本の芸人にも変に気取らないで笑いを取りにいくことに貪欲になって欲しいな。