市川崑が捉えた、人工的なまでの美しさ/『東京オリンピック』★★☆

 1964年の東京オリンピックを記録した市川崑の『東京オリンピック』を観賞。脚本を市川とともに和田夏十白坂依志夫谷川俊太郎が執筆、撮影は宮川一夫、音楽は黛敏郎、編集は江原義夫。

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 こんな機会じゃないから観ないからと、サブスク料金だけ払って全然アクセスしていないクライテリオン・チャンネルで『東京オリンピック』を観た。周知の通り、公開に先立って「芸術か記録か」で大論争を引き起こした作品だが、僕が何よりも圧倒されたのは市川崑がこだわり、宮川市夫がカメラに収めた「構図の美しさ」だった。

 

 僕は最近仕事で某企業のYouTubeチャンネルを手伝っており、過密に組まれたスケジュールに色々なことが起こり、とにかく忙しすぎるので映像美なんて二の次でカメラを回している。そして後で映像を持ち帰って必要な素材が取れていなかったり、肝心なショットの出来がイマイチだったりして編集で頭を抱える毎日の連続だ。

 

 当然、そんな雀の涙のような予算しかない弱小YouTubeチャンネルと大会組織員がバックについたかの市川崑監督作品を比べるのも烏滸がましいけれど、それにしたってあまりにもショットが人工的で美しい。まるで全てリハーサルを重ねれられた上で撮られたかのようで、照明の当たり具合まで絶妙で、しかもほとんど三脚でカッツリ画作りをしている。別撮りもあると聞いたけれど、大半は実際の選手達を撮影している訳で、あたかもこの東京オリンピックという国家的大会すらも市川崑の映画のために仕込まれたイベントかのように思われる。

 

 また、編集も面白く、例えば砲丸投げを行う選手の不思議な癖だったり、マラソンでビリになったりリタイアする選手だったり、世界各国のアナウンサーの喉元の部分だけだったり、選手村で食事をしている選手達の口元だったり、市川監督が大会のマクロな視点よりもミクロな部分に興味を持っていることが分かる。特に僕が好きだったのは、インターミッションを挟んだ後半、当時独立してから4年しかたっていないチャドから来日したアフメド・イサにフィーチャーしたパートだ。

 

 急に物語性が強くなり、イサ選手が選手村で練習に打ち込んでいる様子にチャドという国がいかに経済的にシビアかナレーションで重ね合わされ、演出により儚さが増長されるのだけれども、今大会でも選手村から脱走したウガンダ選手のことも思い出してしまい、決して遠い過去の出来事には思えない。しかも、「歳は22歳。国の年齢の方が彼よりだいぶ若い」というナレーションが素晴らしく詩的で情緒溢れるのだけれども、脚本に谷川俊太郎が関わっていると聞くとどこか納得する。

 

 僕は比較的愛国心がない人間だと思っているけれど、それでもこの映画のラストである閉会式の場面には感動してしまった。市川崑も必要以上に日本人選手の活躍に焦点を当てなかった為か、だからこそ「平和の祭典」を前に一致団結する人類を見て、ジーンときてしまった。当然、多少なりともプロパガンダ的側面もあるとは思うのだけれども、それでも開催都市決定段階から今日の開幕に至るまで、深い分断を産み続けた東京オリンピック2020をずっと見続けていた現在の観客としては、今大会が1964年の「夢」にどこまで近づけるかは俄かに信じがたい。