ゴーストだけに魂なし/『ゴーストバスターズ フローズン・サマー』★☆☆

 『ゴーストバスターズ』シリーズ最新作『ゴーストバスターズ フローズン・サマー』を鑑賞。前作で監督だったジェイソン・ライトマンは今回は降板してプロデューサーに周り、『モンスターハウス』の ギル・キーナンが抜擢。脚本はライトマンとキーナンが執筆、初代監督アイヴァン・ライトマンのプロデュース作品としての遺作。キャストは前作から引き続きポール・ラッド、キャリー・クーン、フィン・ウルフハード、マッケナ・グレイスらが続投、旧作からもビル・マーレイダン・エイクロイド、アーニー・ハドソン、アニー・ポッツらが登場し、クメイル・ナンジアニ、エミリー・アリン・リンド、パットン・オズワルドらが新規参戦。

 

分かっちゃいたけど、つまらない映画でした。以上。

 

 何がダメかっていうのは、概ね僕が前作で怒りのままで書いたレビューと同じである。前回との違いは、期待値が低かったので心の平穏を保てたまま観れたことか。この気持ちは『フォースの覚醒』に激怒したおかげで『最後のジェダイ』は冷静に観れた時の気持ちに似ている。

 

 前作のレビューで僕は次のように書いている。

僕が本作でグロテスクだと感じたのは、主人公たちを少年・少女たちに置き換えていることだ。つまり、1984年当時子どもだった大人たちが、今一度「子供に戻った」気分になれる作品になっていることだ。

(中略)

(『サウスパーク』の)シーズン20が放送されたのは2016年で、昨年末に『フォースの覚醒』が公開されて『スター・ウォーズ』が再始動し、まさに『ゴーストバスターズ』のリブートが公開され、そしてドナルド・トランプが選挙で勝った年だった。ポップカルチャーに蔓延る懐古主義を危険な保守回帰思想と一早く結び付けたトレイ・パーカーとマット・ストーンの先見の明には驚かされるばかりだが、『ゴーストバスターズ/アフターライフ』の根底に流れる精神はこれと一緒だ。本作は「あの頃は良かった」とMAGA帽子を被りながらアメリカ国旗を振るのと何が違うのか。これを文化的退廃と言わずしてなんと言おう。

 

 今回は舞台を前作のオクラホマからNYに移したことで更にノスタルジアを強く感じる作りになっており、まるで必要性の感じられないスライマーとかマシュマロマンの再再登場とか、旧作のキャストを無理やりストーリーに組み込んだり、ニューヨーク公共図書館をまた舞台にしたり、見事に新鮮さを全く感じさせない。

 

 新鮮さを感じさせないのはこれらのセルフオマージュがファンを喜ばせる目的以外なんの役にも立っていないからだ。マシュマロマンはポーグよろしく愛玩キャラクターとしての意味しかないし、せっかくの旧作キャスト集合させた割にはクライマックスで突っ立てるだけの場面が多い。ストーリーも一応あるゴーストの陰謀が絡んでいるのだが、偶然の重なりでしか成立しないような計画で、またせっかく町中にゴーストを解き放った割には全て"ノスタルジックな"ゴーストバスターズ本部でアクションが完結してしまう。

 

 本作で一番腹が立ったのは、冒頭のアクションシークエンス後にゴーストバスターズの面々が批判されるニュースで「1989年の自由の女神事件以来の被害で…」と2016年版と無関係であることをアピールする、有害なファンダムへのサービス精神である。大炎上した2016年版の方が新しい事への挑戦や『ゴーストバスターズフランチャイズ脱構築と再解釈に成功していた。

 

 結局のところ毎回ポール・フェイグ版と比べてこの新リブートシリーズを腐してしまうのは、あちらと比べて映画の中に作り手の魂がこもってないからだよ、ゴーストだけにね!