映画は人生じゃない/『映画大好き ポンポさん』★☆☆

 杉谷庄吾人間プラモ】の漫画をアニメ映画化した『映画大好きポンポさん』を鑑賞。監督・脚本は平尾隆之、キャラクターデザインは足立慎吾、音楽は松隈ケンタ。映画プロデューサー ポンポさんの声を小原好美が、主人公となるポンポさんのアシスタント ジーンを清水尋也が務める。他に加隈亜衣大谷凜香大塚明夫らが共演。

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  • もう二週間前に見た映画で朧げな部分もあるので、今回は箇条書きに。先に言っておくが、僕はこの映画はかなり苦手だ。軽快なテンポでエンタメ性も抜群で騙されがちになるが、この映画の背景で見え隠れする哲学は危うげで危険だと思う。
  • ある時期まで僕にとって映画は間違いなく人生であった。過去形で書いたのは、「映画=人生」と短絡に結びつける考え方こそが、映像業界で大小様々な理不尽を引き起こしていることも目撃してしまったからだ。クリエイティビティの為なら、多少の犠牲も厭わない。そういった考え方がハリウッドでのセクハラやレイプ、業界で常態化した低賃金・長時間労働パワーハラスメントなどのベースとなってきた。
  • もちろん、他の芸術表現同様(これ大事)、映画が人生を豊かにするものであることは間違いない。だが、あくまで映画は映画であり、人生に豊かにするはずの映画で他者を不幸にしていいはずがない。だのに、そういった事態がクリエイティブの現場から全く無くならないのは、映画や映像表現を過剰に崇高化していることが原因と思われる。
  • これは映画制作者に限った話ではない。例えば、自分の好きな映画シリーズが、自分の思ったような出来にならなかったために映画ファンが出演者や制作陣を脅迫する光景は特にSNS時代において珍しくなくなった。マーク・ハミルが言うように「映画は所詮映画」なのだ。
  • また、これは自戒を込めて書くけれど、映画ファンには選民思想を持った人が多い。日本だと「かつて」の「『映画秘宝』イズム」によって肥大させられていた一面もあるだろうが、「人生を謳歌している奴に、映画が分かってたまるか」という考え方だ。TV映画を好んでいる人に対して、軽蔑してわざわざマウントを取りに行くような姿勢だ。
  • 僕も学生時代にどっぷりその思想に浸かっていたから、その気持ち良さは分かる。青春を謳歌しまくってる奴らがバカやってセックスしている間に、自分は全ての時間を映画に捧げてきた、テキトーに遊んで大企業で安定することのみを考えて薄っぺらく生きているようなやつなんかに、映画の良さがわかるはずがない!という大変捻くれた選民思想だ。
  • 自分で書いておいて胸が抉られるような気持ちになったが、大人になって色々体験して分かったのは、こういった選民思想が一番薄っぺらかった、ということだ。そしてこの選民思想はセクシズムにも繋がりやすく、岩田編集長によるDM恫喝事件にはこういった選民思想も根底にあっただろう。
  • さあ、『映画大好き ポンポさん』の話に戻ろう。敏腕プロデューサーのポンポさんは、自らのアシスタント ジーンを次回作の監督に雇う。アシスタントプロデューサーが監督に…?という疑問は傍に置いておくとしても、その起用理由は「目の輝きがないから」だ。曰く、青春を謳歌しているような人間に映画監督は務まらない、とのこと。こんな薄っぺらい選民思想で人選をする時点で敏腕とされるポンポさんへの信頼度は揺らいでしまう。(もちろん、ジーンが製作した予告編にセンスを感じたから、という理由があったとしても)
  • ポンポさんは、ジーンくんに「映画は女優を魅力的にさえ撮れれば成立する」と映画論を語る。まずもうこの前提自体が大きく間違っていると思うのだが、更にその「魅力的」とされるシーンが巨乳の半裸女優が触手で巻き付けられたりするシーンなので、あまりにも前近代的すぎる。
  • この映画、ジェンダー的に危ういのはこのシーンだけでなくて、引退気味の大物俳優が共演女優にSNSの連絡先聞くのをギャグとして描いている(しかも二度)。別に政治的に正しくあれと言いたいのではないが、あまりにも昨今業界でどういった問題が起きているかについて無自覚的すぎると思う。
  • 一番大きな問題は、クライマックスでジーンくんが編集作業中に体を壊してしまい入院するのだが、病院を脱走してまで映画を完成させようとするシーンを感動的に盛り上げている部分だ。映画は体を壊してまで作るものでは断じてならないし、これを美化することは業界のブラック体質を賛同することになる。しかもそれをブラックさでは引けを取らないアニメで表現してしまうグロテスクさよ…。*1あとついでに、銀行内のプレゼンを全世界に公開することも扇情的に描いているのも、倫理観がやっぱりどこかおかしい。
  • さらに「映画を描く映画」として看過できないのは、「面白い映画の尺は90分」と一面的に描いていることだ。ポンポさんは「現代の観客は長い映画には耐えられない、それを押し付けるのは説教くさい」みたいなことを言っていたけれど、じゃあポンポさんはYouTubeでファスト映画でも作ってればいいじゃないですか。そりゃ僕も「尺が100分以内の映画は面白い!」みたいなことを冗談で言ったりしますけれど、長い映画だって絶対に必要だし、多様性こそが映画を面白くするのにポンポさんこそが勝手な映画論を押し付けているに過ぎない。ザック・スナイダーの前でも同じこと言える?
  • このように、僕はポンポさんには高圧的な態度(プロデューサーとして最悪)含めて何から何まで反発していたのだけれど、一番ダサいと思ったのは、「御涙頂戴の感動もの映画よりもくだらない映画で泣かせた方が偉いでしょ?」的なことを言うくせに、劇中でみんなで一生懸命作っているポンポさん脚本の映画がまさに「御涙頂戴の感動もの映画」なのだ。
  • 映画内ではわざわざ「ニャリウッド」とか「ニャカデミー賞」とかつけてるくらいだから、あくまでファンタジーとして咀嚼すべきなんだろうけども、土下座とか自己犠牲精神とかそういう「心意気」みたいなところだけが生々しく日本的なのも大変気になるところだった。
  • 文句は色々言ったけれど、正直この映画の公開があと5年早かったら僕も大層共感して絶賛していたのかもしれない。が、自分も未だにフラッシュバックを起こして動悸が起きるくらい映像業界のブラックさに泣かされ、松江哲明事件や#MeToo運動、アップリンクパワハラや『映画秘宝』DM恫喝事件…などなどを経てしまった後では、映画と人生をダイレクトに結びつけてしまう映画は気持ちよく見れなくなってしまったよ。「映画=人生」とする映画なら、『ミッチェル家とマシンの反乱』の距離の取り方の方が、よっぽど大人だったなぁ、と思う次第だった。

 

 

*1:余談だが、低予算とはいえ、編集マンを雇わないポンポさんは本当に敏腕プロデューサーなのだろうか…。