『百円の恋』のレイプシーンを考える

 『YOLO 百元の恋』の予習として今更ながらリメイク元の『百円の恋』を観た。間違いなく言えるのは安藤サクラは素晴らしいという事だ。冒頭と最後ではまるで姿勢や動きからして違う人間になっており、ボクサーにしか見えない説得力があり、百円の価値しかない負け犬一子が立ち上がる物語として『ロッキー』に非常によく似たカタルシスを得た。彼女の俳優力で成り立っている映画と言っても過言ではない。

 

 だからこそ、中盤のレイプシーンにどうしても引っかかる。ハッキリ言うと、描写として最悪である。何にここまで嫌悪感を抱かせるかというと、この映画内で発生するレイプは一子が負け犬として人生を転げ落ちる過程と「しか」捉えられていないことだ。レイプは魂を殺す犯罪行為であり、サバイバーの人たちに一生残る精神的な傷を負わせ、中には悲しいことに自ら命を経ってしまう人もいる。実際のサバイバーの方達がこの映画を見てフラッシュバックを起こす可能性は十分に高いはずだ。

 

 たかだか「ツイテない」人生を象徴する出来事であるべきではない。更に最悪なのは、一子をレイプした野間はコンビニの金をバックれたまま劇中から消えてしまい、形だけでも罰が下されていないのだ。

 

 勘違いしてほしくないが、「レイプを描くな」と言いたいのでない。レイプを描いた映画はたくさんあるが、当然その描写には細心の注意が払われるべきだし、作品内で描かれるレイプ行為は物語上の必然性があるべきで、単なる舞台装置や見せ物ショーであってはならない。

 

 『プロミシング・ヤング・ウーマン』などは有害な社会に復讐する女性の話だからこそレイプは作品中の重要な要素である一方で、直接的な描写は避けていた。『最後の決闘裁判』も女性の人権が最も軽視された時代において、男性目線から見た都合の良い性行為が弱者女性の目線に切り替わるとレイプとなり、非常に恐ろしいものとして描いていた。『百円の恋』のレイプシーンには、そのような必然性も批評性もなく、ともすれば「だから一子の人生はダメなんだ」と被害者の落ち度を指摘せんばかりの展開にも見えてしまう。とても男性目線的である。

 

 もちろん、僕含めて社会的なジェンダー問題意識のアップデートが行われているのはここ10年にかけてのことだ。2024年の視点から2014年の映画内の描写を断罪するのはいささかフェアではないのかもしれない。しかし、今の視点から見ると結果的に新井浩文と直井卓俊といった性加害事件に関わった人間が参加してしまっていた、という事実もこの映画を余計に気味悪くさせる。

 

 もう一つおまけに、最近でもインティマシー・コーディネーターを監督判断で不要とした映画が炎上したが、ICがいなかったこの時代に本作は性描写をどうやって撮影していたのだろう、とも思ってしまう。先日、とある女優さんと仕事をさせていただいたのだが、彼女が10年前に性的なシーンでヌードになった際、普段は現場にいないはずのお偉いさんが何故かたくさんカメラ前に集まって大変怖かったそうだ。スタント技術が発展していなかった時代の危険なアクション映画を見るとハラハラしてしまうが、IC不在の時代の性的なシーンもこのように視聴者側が現場の裏事情を巡って緊張してしまう。

 

 怖いのは、『百円の恋』が公開された当時のレビューやブログなどを見ると、どの媒体も大絶賛ということである。レビュー内でレイプ描写に触れていたとしても、それは物語のきっかけとしての記載であって、問題視しているのは確認できていない。誤解なきよう、そういったレビューを書いた人たちが「怖い」と言いたいのではない。僕はたまたま2024年にこの映画を見れたが、『映画秘宝』にかぶれた大学生だった当時に観ていたら、僕はきっとこの映画を絶賛していたんじゃないか、と想像するのがとても怖いのだ。

 

 さて、『YOLO 百元の恋』は中国本土では大ヒットした映画だと聞く。中国映画ともあり、さすがに性描写は出てこないと思うのだが、どのように内容をアップデートしているのか気になるところである。