真の意味での「スポーツの力」とは何かを教えてやる

 僕は学生時代から長らく、「スポーツ」というものに苦手意識を持っていたが、体育会系の持つ「特権」的雰囲気が嫌いだったのだろう。多少他人に横柄な態度を取っていようが、運動ができれば人気者だしモテる。理不尽なハラスメントも「体育会系のノリ」という魔法の言葉で許される。まあ、これも一種のステレオタイプなんだろうけど、そんな気持ちをこの発言を聞いて学生時代以来久しぶりに思い出した。

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 全くもって度し難く、ハラワタが煮え繰り返るくらいムカつく発言だ。じゃあ、今歴史的な国難で血涙を飲む思いで踏ん張っている映画や音楽、演劇などの文化の力は大事では無いのか?飲食の力は?医療や国民の健康へのリスクを想定して警鐘を鳴らし続ける科学や学問の力は?

 

 この発言の何が一番ムカつくかって、こういう都合のいい時だけ感情的で曖昧な定義の「スポーツの力」を持ち出しているからだ。

 

 学生時代の僕はスポーツにまるで興味がないまま大人になってしまったけれど、このブログの読者の方々ならご存知の通り、僕は2年ほど前からNBAにハマっている。NBAがエンターテイメントとしてべらぼうに面白いから、というのもあるが、NBAが社会問題解決のためのプラットフォームとして機能していることに非常に感銘を受けたから、というのも大きい。

 

 差別的発言で知られるトランプが大統領になった期間、ホワイトハウスに行ったNBAの優勝チームは1チームたりとも無い。レブロン・ジェームズやケヴィン・デュラントなどのスタープレイヤーたちは公の場でトランプやFOXニュースの差別的な言動に対する批判を躊躇することはなかった。

 

 昨年コロナで中断したリーグが再開に向けて進んでいた際、選手会の間では再開を望まない声もあった。ジョージ・フロイトの死をきっかけにBLM運動が全米で広がり、社会の関心が黒人の地位向上からリーグの再開に移ってしまうことを危惧したためだ。結果的にバブルでのリーグ再開期間中、選手たちはBLMや社会的平等のメッセージを記したユニフォームを身に纏い、「BLACK LIVES MATTER」と大きく記されたコートで走り回った。それでもまたもや黒人が警察官に撃たれる事件が発生すると、プレーオフにもかかわらず選手たちは全試合をボイコットした。一時はシーズンの中断も話し合われたと言う。

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 大統領選ではマイノリティたちの投票の機会が奪われないよう各球団がスタジアムを投票所として提供し、パンデミックの一刻も早い収束のためにもスタジアムをワクチンの接種会場として提供した。アジア人へのヘイトクライムが問題になると、選手たちや球団は反差別を唱えるステートメントを出した。

 

 そしてこういった事例は、何もNBAに限ったことではない。日本で卑近な例だと、大坂なおみも理不尽な差別の犠牲者になった黒人たちのマスクをつけて優勝したことは話題を呼んだし、最近も記者会見をボイコットすることでスポーツ選手のメンタルヘルスについて世間の注目を集め、大会の運営が在り方を見直すことになった。大谷翔平MLBベーブ・ルース以来の二刀流として大活躍していることは、「運動ができない」とされるアジア人へのステレオタイプを打破し、全米の子供たちに希望を与えている。

 

 僕が知る「スポーツの力」とは、アスリートたちがスポーツというプラットフォームを通じて社会に変革をもたらそうとする力のことであって、国民の税金でのうのうと飯を食っている政治家たちが、プロパガンダを満たすために掲げていいスローガンでは断じてない。もうここまで来てしまったら「オリンピックはやめろ!」とは言わないが、せめて恥は知ってほしい。ファック・ユー、ユー・ファッキング・ファック!