僕と『ダークナイト』〜または愛する映画を愛する人と共有できない哀しみについて〜

 僕は人生である時期、『ダークナイト(2008)』に占領された期間がある。高校2年生の時に出会った『ダークナイト』は『スター・ウォーズ』とスピルバーグ映画しか知らなかった少年にとって、ある意味では初めてのシネマティックな体験だった。実写の物理法則にこだわったアクション、いちいちカッコいいショットや気の利いたセリフ回し、重厚な音楽、練られたシナリオ、そして無論映画史に残るヒース・レジャーの快演で実存感を与えられたジョーカーに倫理観を揺さぶられ続け、多感な高校生にとっては衝撃だった。

 

 なけなしの小遣いを叩いて映画館には計3回通い、来る日も来る日も寝ても覚めてもダークナイト』のことだけを考え、友達と日々『ダークナイト』の議論を交わし、拙い文章でジオシティーズのホームページに感想を書き、ジョーカーに憧れて教室で唇をペロペロ舐めちゃうし、果ては『ダークナイト』の続編を勝手に夢想して絵の上手い友達に漫画を描いてもらっていた。

 

 もちろんサントラやDVDを買って脳裏に焼きつくほど繰り返し鑑賞したし、大学生になると『ダークナイトライジング(2012)』のジャパンプレミアがまさかの誕生日に実施されしかも当選するという縁もあった。なお、その際にもプレミア参加条件として1週間前に『ダークナイトIMAX上映を鑑賞したが、自分のツイートを振り返ると、2013年のIMAXリバイバル上映の時もスケジュールの都合からかわざわざ浦和まで出向いて『ダークナイト』を観に行っていた。

 

 アメリカ在留時にシカゴ旅行をした際は『ダークナイト』のロケ地巡りもした。複数の友達と旅行していたが、僕だけ一人抜け出してあちこち出向いて写真を撮りに行った。その時の写真ツイートは以下の記事にまとめている↓

 

 なんか話が散漫としてきたが、要するに高校時代と言わず、それほどこれまでの人生で『ダークナイト』に費やしてきた時間は多かった。当然オールタイムベストテンやゼロ年代ベストテンなどでことあるごとに『ダークナイト』は選出してきたし、逆にもう『ダークナイト』を殿堂入り作品としてベストテンに選びたくないくらい『ダークナイト』という作品を愛している。

 

 そんな『ダークナイト』が、今度はワーナーブラザース100周年記念作品として109シネマズプレミアム新宿で上映されることになった。初公開時から15年経ち、高2病を患っていた僕も30代を迎えて結婚もした。「もう流石にいいかな…」と一瞬思ったが、貴重な35mm上映という僕がまだ観たことがないフォーマットであったのと、嫁さんがそもそも『ダークナイト』を未見だというのを言い訳にまたスクリーンで鑑賞することにした。

 

 個人的に映画は庶民の娯楽であるべきだと思っているので、映画を高級品のように扱う109シネマズプレミアム新宿のコンセプトは正直好きではない。余談だが、僕たち夫婦は毎月14日にデートをすることにしているが、映画に4000円以上払う意味が理解できず『リトル・マーメイド』を109シネマズプレミアム新宿で観ることを拒否してTOHOシネマズで予約したら喧嘩になった事もある。TOHOシネマズに失礼だろ!

 

 そんな高級映画館に初めて足を運んだ訳だが、映画館のロビーが空港のラウンジのような上品な装いをしているのに驚く。しかもウェルカムドリンクやポップコーンもついており、上映が始まるまでお代わり自由。109シネマズプレミアム新宿はどこまでも上質な映画体験を目指しており、『リトル・マーメイド』にはもったいないかもしれないが、確かに『ダークナイト』のような過去の名作を流す分には20~60年代アメリカのロードショー上映のような品格を味わえる体験としてはアリだとは思った。*1


 さて、いよいよ35mm版の『ダークナイト』である。当然、全シーン・全ショットを覚えている映画なので、名場面が来ると「いよ、待ってました!」と歌舞伎のような気持ちになる。しかし、何度見ていようとアクションには手に汗握らされるし、市民が囚人の起爆装置に手をかけるカットは永遠に感じるし、全てを背負ったバットマンが闇夜を疾走するラストには鳥肌が立つ。そしてフィルム独特のグレインや色調、フィルムの傷やハイキーでのフリッカーにより、本作が70年代のクラシック映画かのような雰囲気さえ醸し出していて、初めて観るような新鮮味も与えてくれた。

 

 一方で、これが初めての『ダークナイト』体験となる嫁さんが心底羨ましかった。ジョーカーの問いかけも、レイチェルの悲劇も、トラックの横転も、市民の逡巡も、バットマンの選択も、全て初めて目撃するのだ。さぞかし、16歳の僕が得た衝撃を今頃受けているに違いない。

 

 そんなことを思いながらニコニコとエンドロールを眺め、場内が明るくなった後に嫁さんに感想を聞くと「面白かったけど、よく分からなかった」とのこと。僕は深い座り心地の座席にそのまま沈み込みそうになった。ショックのあまり、2時間半の上映時間の後に彼女が無惨にも放った言葉をそのまま原文で覚えている。「It was good, BUT I didn't understand.*2 まるで真逆な二つの文章が、残酷にもいとも簡単な接続詞で繋がれている。

 

 当たり前だが、誰がどんな映画にどんな意見や感想を持とうが自由だ。人によって趣味嗜好、好き嫌いは分かれて当然だ。しかし、自分が死ぬほど好きな作品を共有できなかった時に味わう、このなんとも言えない虚しさや哀しさはなんだろう。しかもその相手が、自分がこの世で最も愛する人間なのだ。

 

 ただし、実はこうした哀しみは今に始まった事ではない。『E.T.』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『スター・ウォーズ』に『レイダース』…。僕という人間を形作った映画を一緒に見る度に嫁さんは「面白いけど、私が好きな映画じゃないね」と僕の心を打ち砕いてきた。しかし、映画ファンには自分の好きな映画を観てもらうことで相手に自分を理解してもらえる、という倒錯めいた思い込みがあるので、僕は何度も同じことを繰り返し、そしてだからこそ理解されなかった時に自分が否定されたかのように錯覚するのだ。

 

 結局、自分のオールタイムベストを他者に押し付けるのはただの自己満足でしかない。嫁さんは僕の好きな映画ではなくて、僕という人間を愛してくれている。そんなことは分かっている。分かっているんだけど、僕は今後も嫁さんに映画を見せて否定され、何度も傷つくだろう。だって映画ファンは映画はただの映画だと割り切ることがどうしたってできない、馬鹿なんだもの。

 

*1:しかし、嫁さんは電車の乗り換えを間違えてギリギリの到着となってしまい、せっかく彼女の念願だった109シネマズプレミアム新宿の体験をほとんど味わうことができなかったのは皮肉である。まあ、また行きますよ!

*2:嫁さんは台湾人で、我々夫婦の会話は基本的に英語なのだ