ジェレミー・リン無くして『シャン・チー』無し/『38 At The Garden(原題)』★★☆

 HBO MAX独占配信の「リンサニティ」についてのショート・ドキュメンタリー『38 At The Garden(原題)』を鑑賞。監督は本作がデビュー作となるフランク・チー。主題となるジェレミー・リンの他、『シャン・チー』のロニー・チャン、『愛国者として物申す』のハサン・ミンハジ、ジェニー・ヤン、そして元NBA選手のタイソン・チャンドラーやイマン・シャンパートらが出演。

 

 物静か、真面目、努力家、勉強家、規律正しい、数字に強い、運動音痴…etc。これらはアメリカ社会における「アジア系」の一般的イメージである。もちろん、日本人の我々にとってこれらは全くの出鱈目で、我々の社会は様々なパーソナリティを持った市民で構成されているのは自明のことだが、アメリカ国内においてアジア人達はこの「偏見」からはみ出すことは許されず、社会の端でひっそりと暮らすしかなかった。

 

 NBA選手なんてもってのほかである。アジア人は走れないし、飛べないし、ボールを扱うことができない。しかし、ジェレミー・リンはただただ自分が好きなバスケットボールを追い求めた。どれだけNBAのスカウトに実力を無視されても、自分の才能に自信を持っていたし、幸運なことに家族も彼を信じていた。

 

 試合にもまともに出してもらえず、契約破棄も寸前で無名に等しかったジェレミー・リンが、2011-2012シーズンに突如として覚醒し目を疑うような活躍を遂げた1週間を「リンサニティ」と呼ぶ。これは「Insanity(狂気)」を捩った造語だが、NBA史にも残る革命となった。この間平均27.3得点を記録し、コービー・ブライアント率いるチャンピオンのレイカーズ相手に38得点*1をあげ、ラプターズ戦では決勝3Pを決めると敵地であるにもかかわらず、トロントの観客はスタンディングオベーションを送った。

 

 何故「リンサニティ」に人々が熱狂したのか。それは移民の子が成功を掴み取る、まさしく「アメリカン・ドリーム」を体現していたからだ。『ロッキー』のような物語に夢中になったのはアジア系アメリカ人たちで、テレビに釘付けになった彼らはスポーツ選手を、コメディアンを、俳優を、スーパーヒーローになることを憚らず夢見た。

 

 しかし、アジア系市民の期待は、新型コロナウイルスによって打ち砕かれる。ウイルスと並行してアジア系への憎悪が蔓延し、2020年以前と以後では3倍以上アジア系へのヘイトクライムが増えたという。本作品内でも触れられる差別の数々は聞いているだけで胸が痛くなる。一方で、今に始まった事ではない。コロナはアジア系への差別を可視化しただけで、以前からアジア人だからというだけで多くのアメリカ人からは同胞と認められず、理不尽な扱いを受け続けている。

 

 だからこそ、ジェレミー・リンが残した功績は輝きを放つ。自分と同じ肌の人間が、目覚ましい活躍を遂げているだけで、大きな勇気を与えられる。ジェレミー・リンがアジア系の可能性を広げ、アジア系に対する偏見を開眼しなければ、八村塁や渡邊雄太が全米の注目を浴びることも、アジア系コメディアンたちが人気になることも、Kポップが流行ることも、マーベルが『シャン・チー』を作ることも『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』がオスカー最優秀作品賞候補になることもなかったはずだ。

 

 『38 At The Garden』は「リンサニティ」から10年以上経った今も理不尽や偏見と闘うアメリカの、いや世界中のアジア人たちの背中を押してくれる優しい作品だ。君は何にでもなれるし、なっていいんだって。

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*1:当然、このドキュメンタリーのタイトルの由来である