記録は人間の本能である

 これはこのブログで何度も書いている話*1だが、POV映画への批判として「カメラで撮ってる場合かよ」というのはよく聞く。例えば、2008年に公開された怪獣映画『クローバーフィールド』は謎の怪獣がNYを壊滅させる様を市民が手持ちのハンディカムで撮影し続けた映像という設定で、その見つかったフッテージから構成された映画の体をなしている。が、そもそもそれだけカタストロフィックな状況だったら、なんで逃げずに呑気に撮影しているのか?という批判は公開当時よく聞いたものだ。

 

 さて、みなさんご存知の通り、この正月は生涯忘れないような尋常じゃない出来事が立て続けに起きた。能登の震災も日航機事故も最新の情報を得るために常にテレビやネットに張り付きっぱなしな日々を送っているが、ニュースを追っているとある事に気がつく。「視聴者提供」の動画がとても多いのだ。

 

 Twitterでも地震や事故の当事者たちが、自分たちのスマホで撮った映像をアップして拡散されている。目前に迫る津波や土砂崩れの映像だったり、脱出後に燃え盛る飛行機の映像だったり。今日は新しく公開された、日航機が海上保安庁の機体にぶつかってから乗客が脱出するまでの8分間をノーカットで捉えた映像に釘付けだった。

 

 現場の緊張感が伝わって思わず涙が出そうになるくらいの臨場感だ。この動画を撮影したのは三人家族の父親で、彼の娘が不安そうに声を上げているのも収録されている。しかし、この父親は8分もの間カメラを回し続ける。ニュースによると「今後の事故対応に役に立つのでは」との動機で撮影していたが、考えてみればそんな義務は乗客にはない。冒頭の『クローバーフィールド』ではないが、なぜこの父親はこんな聞き的状況でカメラを回し続けていたのだろう?

 

 毎度僕はこういう切迫感溢れる映像を見るたびに感じるのだが、記録を残すことは人間の本能じゃないかと思うのだ。大昔、歴史家たちが数々の戦史を書物に残してきた。芸術家たちは戦いの激しさや平和な日常を絵に残した。一般市民も日記という形で日々の生活を記録した。写真が撮影されるとよりリアルに記録を残すことが可能となり、映像が発明されるとニュースが生まれた。いまやスマホにより、カメラが民主化されて誰でも記録を簡単に残せるようになった。

 

 出来事を瞬時に記録することが可能となった今、命の危機に直面した人間が何よりも先にまずスマホを撮り出して状況の撮影を始めるのはなんら不思議ではない。そういった意味で『食人族』などから端を発したファウンドフッテージ映画やPOV映画というのは、人間の本能を炙り出した優れたジャンルなのではなかろうか。