『シン・ゴジラ』と安心神話

 明日『ゴジラVSコング』を観る予定*1なので、予習として『キングコング対ゴジラ』を久しぶりに見返して、そのまま十何回目かの『シン・ゴジラ』も見直しました。

 

 『シン・ゴジラ』、何回観てもいい映画なんですけど、「緊急事態宣言」がもはや日常と化してしまったコロナ禍において、劇中内で描かれている行政プロセスの煩雑さがいまや余計にリアリティのあるものとして受け取れますね。会議のための会議とか、スピード感を欠く対策もこの1年で散々我々は観てきました。他にも、ゴジラを凍結させる凝固剤を製造するために国内プラントを確保するのも、ワクチン接種のために打ち手の数や会場を調整する工程と重ね合わせてみたりしていました。

 

 特に今回観賞して一番「おっ!」と思ったのは、過剰に「安心」を重要視する日本政府の姿勢です。冒頭、尾東が巨大不明生物の上陸の可能性を指摘したにもかかわらず、原稿を無視して大河内総理大臣は国民が「安心」するために「自重は不可能、よって上陸することはない」と生中継で断言して恥を描くことになります。また、自衛隊の出動が決まった際も、何も始まってすらいないのに官僚が「これで一安心だな」とぬか喜びを見せます。彼らは科学的な提言を軽視し、「安心」感を求めるあまり、ゴジラによる被害をいたずらに拡大させていきます。

 

 この「安心」への信頼感こそ、我々日本人に巣食う病理だと思います。「安心」と「安全」はよく同列に並べられますが、実質全く異なります。何の根拠もないのに、外国産の野菜よりも国産の野菜が好まれるのはその方が「安心だから」です。テレビのタレントやYouTuberがよくマウスシールドをしているのを見かけますが、何もつけてないよりは何かつけておいた方が「安心だから」でしょう。実際には、見た目だけで無農薬な野菜かどうかは分かりませんし、マウスシールドに何の感染予防効果がないのはよく知られている通りで、科学的な事実を根拠とする「安全」と心理的な快適感を基盤とする「安心」が違うことはよく分かります。

 

 日本のコロナ対策もほとんど「安心感」によって導かれてきました。初期の頃にPCR検査を受けられるのは「37.5度以上の発熱が出た場合のみ」という謎の制限がありましたが、あれは日本政府が勝手に決めた方針で数字自体にはまるで根拠がないのに、日本のほぼ全土で「とりあえず37.5度以下ならok」という「安心」の基準が設けられました。抗原検査は過去の感染歴を調べるもので、今感染しているかどうか分からないのに、一種の陰性証明として利用されているのは「安心だから」です。

 

 ただ、これは政権の如何やコロナに限らず、福島第一原発の時も、冷凍餃子中毒事件が起きた時も、我々日本人は「安全」ではなく常に「安心」を追い求めてきました。だからこそ『シン・ゴジラ』はコロナの時代にも普遍性をもって受け入れることができ、こうした日本人の核となる国民性を見抜いた庵野秀明はやはり只者ではないなぁと思った次第でした。

 

【Taiyakiが過去に書いた『シン・ゴジラ』の記事まとめ】

 

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*1:ちなみに、「『ゴジラVSコング』の『コング』って『香港(Hong Kong)』の『Kong』?」でお馴染みの、『映画ファンを怒らせる方法』もよろしくお願いいたします!

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