映画と言語についての覚書

 ちょっと嫌らしく聞こえることを自覚して書くけど、僕は帰国子女なので英語が話せる。洋画を観ている時も字幕を読まなくても9割方理解ができ、アクセントも区別できるので人物や時代・場所設定の細かいニュアンスが明確にイメージできる。時々劇場で字幕に翻訳しきれてないジョークを拾って僕だけ笑っている時もあり、人によっては「通ぶってる客」みたいな嫌な奴に見えてしまうだろう。

 

 で、なんでこんなムカつく事を書いているかというと(ごめんなさいね)、話題の『コーダ あいのうた』を見るために、一昨日予習としてその原作フランス版の『エール!』を観たのだ。ついさっき見てきた『コーダ』自体は噂に違わぬ大変素晴らしい傑作で、その感想は明日Twitterにまず書こうと思うので取り敢えず置いておくとして、ほとんど同じ話にも関わらず『エール!』があまりピンと来なかったのは言語の壁が想定よりも大きかったんじゃないか、と思ったからだ。

 

 ところどころフランス流のユーモアというか、ギャグというか、会話の受け答えで呑み込みづらい箇所がある。でも翻訳者を責める気もさらさらなく、僕自身も『ザ・ルーム』の字幕を翻訳した時に体験したが、1秒間に4文字、そして1行につき12、3文字という制限の中で原語の面白さを伝え切るのは当たり前だがかなり難しい。『ザ・ルーム』はセリフ自体がかなり幼稚でそこが最大の魅力なので、なるべく直訳するようにしたけれど、それでも字数制限で削らざるを得ない笑える台詞は相当あった。

 

 フランス語を話せたら『エール!』の細かいセリフの妙まで理解でき、字幕翻訳者の苦悩すら理解できたかもしれない。こうした違和感は『エール!』に限らず、中国映画の『流転の地球』を観た時にも感じたし、韓国映画でもインド映画でも僕が非英語・日本語圏の映画を見る時には常に付き纏う。悲しい事実だけれど、芸術を100%理解するためには言語能力やその文化圏に通じていることは不可欠だ。

 

 「だからこそ吹き替え版が…」という論もあるだろうけど、例え吹き替えても細かいニュアンスを全て拾うのは無理だと思う。確か浪人している時の現代文の授業で習ったけれど、言説という概念がある。

 

 (今から書くことは10年以上前に学んだ大変朧げな知識なので、間違っていたら是非訂正していただきたいが、)その現代文の先生が言うには例えば日本語の「木」と英語の「Tree」は厳密に言えば100%同義語ではない。「Tree」と「Wood」は違う意味の単語だけれど、日本語だと両方とも同じ「木」になる。虹も言語による色の定義によって7色だとする文化圏もあれば8色だとする文化圏もあり、驚くべきことにアフリカのある部族では2色になると言う(最後の話は若干眉唾だけれど)。つまり、どの言語を理解しているかによって、物事の認識すら異なってくるのだ。

 

 ただ、忘れないでおきたいのは、100%その言葉を理解できなくても稀に言語の壁さえ突き破る傑作が生まれてくるのも事実だ。このブログ上で何度も書いているけれど、僕にとってそれはアメリカに渡りたてで耳が慣れていなかった上にオージー訛りでほとんど聞き取れなかった『マッドマックス 怒りのデス・ロード』だった。それに近いものを『コーダ』で一部意図的に字幕が訳されなかった手話のシーンに感じた。ASLを話せない僕には何を言っているかは分からないけれど、監督の演出と役者のアクションによりエモーションが突き刺さる。

 

 

 ……そう考えてみると、『エール!』はやっぱり言語の壁を突き破る力はちょっと足りなかったのかな。『コーダ』、リメイクのお手本のような作品でした。

エール!(字幕版)

エール!(字幕版)

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